日本大百科全書(ニッポニカ) 「朱震亨」の意味・わかりやすい解説
朱震亨
しゅしんこう
(1282―1358)
中国の医家。金元医学(きんげんいがく)の四大家の一人。婺州(ぶしゅう)義烏(ぎう)(浙江(せっこう)省金華県)の人。字(あざな)は彦脩(げんしゅう)、丹渓(たんけい)と号した。幼時から学問を好み、経学を修めて官吏の登用試験のための学問を教える挙子業(きょしぎょう)となった。同郡の許謙(諱(いみな)は文懿(ぶんい))について二程子・朱子の学を学んだが、師に医学を学ぶことを勧められ、また彼自身、医学の素養もあったことから医学に専心した。初め『和剤局方(わざいきょくほう)』を学んだが、『素問(そもん)』『難経』の会得の必要を知り、名師を求めて各地を歴遊、ようやく武林(浙江省杭州(こうしゅう))の罹知悌(らちてい)(1238―1327ころ)に入門し、劉河間(りゅうかかん)・張子和(ちょうしわ)・李東垣(りとうえん)らの医学を授けられた。朱震亨の学問上の主要な見解は「陽は余りがあり、陰は不足している」というもので、陰分の保養を重要視し、臨床治療では、滋陰・降火の剤を用いることを主張した。このため「養陰派(滋陰派)」といわれる。朱と李東垣との医学をあわせた李朱医学は、明(みん)に留学した田代三喜(たしろさんき)が日本に伝え、曲直瀬道三(まなせどうさん)に継承され、後世派(ごせいは)とよばれた。朱の著書には『格致余論』『局方発揮』『傷寒弁疑』『本草衍義(ほんぞうえんぎ)補』『丹渓心法』などがある。
[山本徳子]