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朱震亨 しゅしんこうChu Chên-hêng

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朱震亨
しゅしんこう
Chu Chên-hêng

[生]至元18(1281).浙江義烏
[没]至正18(1358)
中国,元代の医師で金元四大家の一人。字は彦修,丹溪と号した。初め儒学を学んだが,のちに医学に転じ,羅知悌のもとで李杲 (りこう) の系統の医学を学んだ。のちに李杲と併称されて李朱医学と呼ばれた。著書に『局方発揮』『格致餘論』『丹溪心方』などがある。

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世界大百科事典 第2版の解説

しゅしんこう【朱震亨 Zhū Zhèn hēng】

1281‐1358
中国,金・元時代の四大医家の一人。字は彦修,金華(浙江省)の人。金華県の丹渓に住んでいたため丹渓先生と呼ばれた。彼は最初,儒学を学んだが,のちに医に転じ,当時用いられていた《和剤局方》に満足できず,李杲(りこう)ら金・元の先人の書を読み,《素問》や《難経》を究めた。《局方発揮》《格致余論》などの著書がある。彼は〈陽は常に余りあり,陰は常に不足している〉という説をたて,陰を養って火を下す薬剤をよく用いたため,滋陰派といわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朱震亨
しゅしんこう
(1282―1358)

中国の医家。金元(きんげん)医学の四大家の一人。(ぶしゅう)義烏(ぎう)(浙江(せっこう)省金華県)の人。字(あざな)は彦脩(げんしゅう)、丹渓(たんけい)と号した。幼時から学問を好み、経学を修めて官吏の登用試験のための学問を教える挙子業(きょしぎょう)となった。同郡の許謙(諱(いみな)は文懿(ぶんい))について二程子・朱子の学を学んだが、師に医学を学ぶことを勧められ、また彼自身、医学の素養もあったことから医学に専心した。初め『和剤局方(わざいきょくほう)』を学んだが、『素問(そもん)』『難経』の会得の必要を知り、名師を求めて各地を歴遊、ようやく武林(浙江省杭州(こうしゅう))の罹知悌(らちてい)(1238―1327ころ)に入門し、劉河間(りゅうかかん)・張子和(ちょうしわ)・李東垣(りとうえん)らの医学を授けられた。朱震亨の学問上の主要な見解は「陽は余りがあり、陰は不足している」というもので、陰分の保養を重要視し、臨床治療では、滋陰・降火の剤を用いることを主張した。このため「養陰(滋陰)派」といわれる。朱と李東垣との医学をあわせた李朱医学は、明(みん)に留学した田代三喜(たしろさんき)が日本に伝え、曲直瀬道三(まなせどうさん)に継承され、後世(ごせい)派とよばれた。朱の著書には『格致余論』『局方発揮』『傷寒弁疑』『本草衍義(ほんぞうえんぎ)補』『丹渓心法』などがある。[山本徳子]

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世界大百科事典内の朱震亨の言及

【中国医学】より

…そのきっかけとなったのは成無己の《註解傷寒論》であったといわれ,《傷寒論》の内容を《素問》の理論で解釈している。その後,金・元の四大家といわれる劉完素,張従正,李杲(りこう),朱震亨(しゆしんこう)をはじめ,張元素,王好古(1210?‐1310?),羅天益(1220?‐1290?)など多くの医家が出現し,それぞれ特徴のある理論と治療法を主張した。たとえば劉完素と張従正は寒涼派といわれるように激しい作用を持った薬を多く用い,李杲と朱震亨は温補派(この2人の流れに従った医学を李朱医学ともいう)といわれるように温和な薬を用いることを提唱した。…

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