曲直瀬道三(読み)マナセドウサン

デジタル大辞泉 「曲直瀬道三」の意味・読み・例文・類語

まなせ‐どうさん〔‐ダウサン〕【曲直瀬道三】

[1507~1594]室町後期・安土桃山時代医者京都の人。名は正盛。あざなは一渓。足利学校に学び、田代三喜中国医学を学んで、日本医学中興の祖とされる。将軍足利義輝豊臣秀吉らの信任を受け、正親町おおぎまち天皇から翠竹院の号を与えられた。著「啓迪けいてき集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「曲直瀬道三」の意味・読み・例文・類語

まなせ‐どうさん【曲直瀬道三】

  1. 安土桃山時代の医者。京都の人。本名堀部正盛。田代三喜の門人。正親町(おおぎまち)天皇、一三代将軍足利義輝、豊臣・徳川氏らに用いられ、日本医学中興の祖と称される。主著「啓迪(けいてき)集」。永正四~文祿三年(一五〇七‐九四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「曲直瀬道三」の意味・わかりやすい解説

曲直瀬道三
まなせどうさん
(1507―1594)

戦国時代の医師。永正(えいしょう)4年京都に生まれる。名は正盛(まさもり)また正慶(まさよし)とも称し、字(あざな)は一渓(いっけい)、号は雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)、寧固(ねいこ)、院号は翠竹院(すいちくいん)のちに亨徳院(こうとくいん)。1528年(享禄1)足利(あしかが)学校に学び、田代三喜(たしろさんき)について李朱(りしゅ)医学を修め、1545年(天文14)京都に帰り、将軍足利義輝(よしてる)、細川晴元三好長慶(みよしながよし)、松永久秀(ひさひで)らの厚遇を受け、学舎啓迪院(けいてきいん)を創立して門人を養成、1574年(天正2)『啓迪集』8巻を撰述(せんじゅつ)して正親町(おおぎまち)天皇に献上し、翠竹院の院号を賜った。道三の名は全国に知れ渡り、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康らにも重んじられ、日本医学中興の祖と称されるようになった。文禄(ぶんろく)3年没。享年88。著書には前述の『啓迪集』をはじめ、『雲陣夜話』『薬性能毒』『切紙』『診脈口伝集』『百腹図説』などがある。

 なお、2代曲直瀬道三は甥(おい)の玄朔(げんさく)(1549―1631)が継いで活躍、『医学天正記(いがくてんしょうき)』はその著である。

矢数道明

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朝日日本歴史人物事典 「曲直瀬道三」の解説

曲直瀬道三(初代)

没年:文禄3.1.4(1594.2.23)
生年:永正4.9.18(1507.10.23)
戦国,安土桃山時代の医者。名は正盛,正慶,字は一渓,号は雖知苦斎,蓋静翁,寧固,道三は通称,院号は翠竹院,啓迪院,亨徳院(致仕後)。京都柳原(南区柳原町)に生まれ,本姓は堀部(または勝部)。幼くして父母を失い,仏門生活を送る。享禄1(1528)年関東に下向し下野国(栃木県)足利学校で諸学を修め,明から帰国した田代三喜の名声を聞いて,同4年から前後7年間にわたって三喜のもとで李朱医学(金元時代に理論化された医学)を学んだ。足利遊学中に曲直瀬に改姓,結婚して一女をもうけたが先妻は足利で没し,京都に帰って再婚,男子・守真を得たが早死にさせている。京都では学舎啓迪院を創設し曲直瀬玄朔,施薬院全宗,秦宗巴ら多くの医生を養成,その名は全国に知れわたった。室町幕府13代将軍足利義輝に重用され,細川晴元,三好長慶,松永久秀らの戦国武将にも厚遇され,これらの武将とは茶道・香道を通じての交遊も深かった。また応仁の乱後途絶えていた朝廷年中行事の屠蘇祝儀を勅命で復興して屠蘇調進を行い,以後これは曲直瀬(のち今大路)家の恒例となった。 著作はすこぶる多く,足利遊学時代には医生の父母の懇望で月湖選『類証弁異全九集』を和訳,自己の意見を加えて和文体の『全九集』を著した。永禄9(1566)年出雲島根に陣した毛利元就の病の治療に下向したとき,『日用薬性能毒』を陣営でまとめ,同じく陣中で門人のために医治の大要をまとめて『雲陣夜話』を著した。また「察証弁治」(病を診察し証を弁別し治療する)の思想をわが国医界に導入した『察証弁治啓迪集』は天正2(1574)年正親町天皇に献上され,嘉称あって天竜寺学僧の 策彦周良 に題辞を選せしめ,本書を広く天下に頒けるよう勅令があった。晩年にキリスト教に入信したとする記事がルイス・フロイスの『日本史』にみられ,洗礼名はベルショールとするが,これを傍証する日本側史料は知られていない。京都で没し寺町・十念寺に葬られ,慶長13(1608)年正二位法印を追贈された。甥の玄朔が2代道三を名乗り,正純,正淋 らが分家を継ぎ,道三流の医学は幕末に至るまで栄えた。<参考文献>矢数道明『近世漢方医学史』,宗田一『図説・日本医療文化史』

(宗田一)

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改訂新版 世界大百科事典 「曲直瀬道三」の意味・わかりやすい解説

曲直瀬道三 (まなせどうさん)
生没年:1507-94(永正4-文禄3)

安土桃山期の医師。京都柳原に生まれ,幼くして両親を失い仏門に入った。本姓は堀部氏(勝部とも),曲直瀬の姓は蘇東坡の詩にちなみ,医学の流れが時代が下るにつれ曲がりくねって不浄となったのを,往古の直にして清らかな流れに戻そうとする使命感から改姓したといい,道三の名は師の田代三喜導道から採ったとも,山東を往来するとき東海・東山・北陸の三道を通り禅門を訪ねたので,その三道にちなみ一道に偏しない医学を志したためともいわれる。翠竹院の号は,もと雖知苦斎(すいちくさい)と称していたのを,正親町天皇より天下万民を救う医業に苦の字があるのは好ましくないと同音の号を賜ったという。学僧として足利学校に遊学中,田代三喜の名声をきき三喜に師事して中国金元医学(とりわけ李朱医学)を学び,1545年(天文14)39歳で京都に帰り翌年還俗して医を専業とし,李朱医学の日本化をはかり,医学校の啓迪(けいてき)院を開いて全国から医生を集め新しい医学教育を行い,その学風は全国をおおい当時の医界の天下者となった。将軍足利義輝に重用され,医学面だけでなく茶道,香道の文化面を通じて多くの戦国大名と交友があり厚遇された。フロイスの《日本史》や《イエズス会日本年報》に道三のキリスト教入信の記事があり,77歳で洗礼を受けたとされるが,日本側の記録は知られていない。主著に《察証弁治啓迪集》があり,《雲陣夜話》《薬性能毒》ほか多数の著書がある。甥の玄朔(東井)が養嗣子として2代目道三を名乗り,道三流医学を普及した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「曲直瀬道三」の意味・わかりやすい解説

曲直瀬道三
まなせどうさん

[生]永正4(1507).京都
[没]文禄4(1595).1.4. 京都
安土桃山時代の医者。医学中興の祖。名は正盛,正慶。字は一渓。号は雖知苦斎 (すいちくさい) ,盍静翁。初め僧となり,永正 13 (1516) 年近江天光寺,さらに同 16年相国寺に修学し,また足利学校に入って経学を学んだ。享禄4 (31) 年田代三喜について医学を修めた。特に李朱医方を学び,天文 15 (46) 年還俗して京都で医療に従い,啓迪院 (けいてきいん) を開いて子弟の教育にあたった。正親町天皇をはじめ,足利将軍家,さらに豊臣秀吉,徳川家康らにも重用された。著書に『啓迪集』『雲陣夜話』『弁証配剤医灯』などがある。

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百科事典マイペディア 「曲直瀬道三」の意味・わかりやすい解説

曲直瀬道三【まなせどうさん】

安土桃山時代の医学者。名は正盛,号は一渓。京都の人。僧となり足利学校に学び,田代三喜から李朱医学を伝えられ,1546年京都で開業,足利義輝織田信長はじめ多くの諸将の知遇を得,門人きわめて多く,曲直瀬流,道三流の名を高めた。晩年キリスト教に入信したとされている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「曲直瀬道三」の解説

曲直瀬道三
まなせどうさん

1507.9.18~94.1.4

戦国期~織豊期の医師。堀部親真の子という。名は正慶(まさよし)または正盛,字は一渓・道三。雖知苦斎(すいちくさい)・翠竹院・亨徳院と号す。京都生れ。下野国の足利学校に学び,この地で田代三喜(さんき)の門に入り,京都に帰って還俗し医を開業。将軍足利義輝の病を癒し,細川晴元・正親町(おおぎまち)天皇からも厚遇された。京都に日本初の医学校啓迪(けいてき)院を創設。三喜からうけた明の新しい李朱医学をさらに親試実験して医療の実際に用い,1574年(天正2)医書「啓迪集」を著した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「曲直瀬道三」の解説

曲直瀬道三
まなせどうさん

1507〜94
戦国〜安土・桃山時代の医者
曲直瀬正盛 (しようせい) ともいう。字は一溪。京都の人。幼くして僧となり,近江(滋賀県)天光寺・京都相国寺に住んだ。田代三喜 (さんき) に李朱医学を学び,1546年還俗 (げんぞく) し医療に活躍。正親町 (おおぎまち) 天皇の侍医となり,織田信長・足利義輝・細川晴元・三好長慶・松永久秀・毛利元就らに厚遇され,豊臣秀吉・徳川家康にも重じられた。わが国医学中興の祖といわれる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「曲直瀬道三」の解説

曲直瀬道三(初代) まなせ-どうさん

曲直瀬正盛(まなせ-しょうせい)

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367日誕生日大事典 「曲直瀬道三」の解説

曲直瀬道三(初代) (まなせどうさん)

生年月日:1507年9月18日
戦国時代;安土桃山時代の医師
1594年没

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世界大百科事典(旧版)内の曲直瀬道三の言及

【医学】より

…いずれも,著者の独自の見解がおもに編されている。室町時代に有名な医師として特記すべきものに,田代三喜曲直瀬道三(まなせどうさん),永田徳本らが挙げられる。田代は,足利学校で学んだのち明に渡り,12年間とどまって,新しい医学を修得して帰った。…

【医者】より

…武士を兼ねた金創医は創傷治療を主としていたが,助産や婦人病,さらに小児病などをも治療の範囲としていたから,必然的にこの分野の専門医を生み,実質的な医療の分化をうながした。 戦国期に広まった実地医療を体系づけたのは,田代三喜とその門人曲直瀬道三(まなせどうさん)である。三喜は明に留学して李朱医学を伝え,これをもとに気,血,痰の治療秘訣を明らかにして臨床医学の端緒を開いた。…

※「曲直瀬道三」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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