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田代三喜 たしろさんき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田代三喜
たしろさんき

[生]寛正6(1465).4.8.
[没]天文6(1537).2.19. 古河
室町時代の医者。名は導道,諱は三喜,字は祖範,号は意足軒,江春庵,日玄,支山人。生地は武蔵の川越または越生といわれる。伊豆の医家田代信綱8世の孫兼綱の子。初め僧籍に入り,長享1 (1487) 年,明に渡り,李杲 (李東垣) ,朱震亨について 12年間医術を学び,医書をたずさえて帰国。

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デジタル大辞泉の解説

たしろ‐さんき【田代三喜】

[1465~1537]室町末期の医師。武蔵の人。号は範翁・廻翁など。後世方(ごせいほう)医学の祖。明(みん)に渡って医学を学び、帰国後は鎌倉、足利、古河と移って医療に従事。弟子に曲直瀬(まなせ)道三がいる。

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百科事典マイペディアの解説

田代三喜【たしろさんき】

室町時代の医学者。名は導道。武蔵国川越(一説に越生(おごせ))の人。僧となり,1487年に明に渡り,李東垣,朱丹渓の医方を学んだ。1498年帰国。鎌倉,足利,次いで古河に移り医業を行った。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

田代三喜 たしろ-さんき

1465-1537 戦国時代の医師。
寛正(かんしょう)6年4月8日生まれ。臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派の僧。長享元年明(みん)(中国)にわたって李東垣(り-とうえん),朱丹渓(しゅ-たんけい)にまなんで帰国,李朱医学をひらく。のち足利成氏(しげうじ)の侍医となり,下総(しもうさ)古河(こが)にすみ,「古河三喜」とよばれた。天文(てんぶん)6年2月19日死去。73歳。武蔵(むさし)川越(埼玉県)出身。名は導道。字(あざな)は祖範。号は範翁,意足軒など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

田代三喜

没年:天文6.2.19(1537.3.30)
生年:寛正6.4.8(1465.5.3)
室町後期の医者。武蔵国越生(埼玉県越生町)生まれ。父は兼綱。長享1(1487)年明に渡り,金・元時代に興った李東垣,朱丹渓らの新医学に接し,日本人留学僧医の月湖に学んだ。明応7(1498)年に帰国して鎌倉円覚寺の塔頭・江春庵に住む。のち下野国足利を経て下総国古河に移り,足利成氏に仕え「古河の三喜」と世に称賛された。三喜の伝はかなり不透明で,生地を川越,生存年についても生年を文明5(1473)年4月8日,没年を天文13(1544)年4月15日とする説もあり,種々の史料からすると複数の人物が総合された可能性もある。ただし,田代三喜という名医が足利学校に遊学中の曲直瀬道三に医学を授けたことは確かで,これをきっかけに道三は医学を講究し,京都に啓迪院を開いて新渡来の中国医学を日本に根づかせた。その意味で三喜の果たした役割は大きい。著書に『三喜廻翁医書』が伝わる。

(小曾戸洋)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たしろさんき【田代三喜】

1465‐1544(寛正6‐天文13)
室町後期の医家。武蔵国川越(一説に越生)に生まれ,医を志して臨済宗妙心寺派の僧となった。1487年(長享1)明に渡り12年間留学して金元医学四大家のうち李杲(りこう)と朱震亨(しゆしんこう)学派の医学を学び,日本人留学僧医月湖に師事した。98年(明応7)34歳で帰国,鎌倉円覚寺江春庵に住み,のち下野国足利に移り,まもなく古河公方足利成氏の招きで古河に移った。名医として知られ古河の三喜とよばれた。数年後また武蔵国にもどり関東一円を往来して李朱医学を唱え,その名声をきいた足利学校遊学中の曲直瀬道三(まなせどうさん)が三喜に師事して京都に李朱医学を持ち帰り,近世医学革新へと導いた。

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大辞林 第三版の解説

たしろさんき【田代三喜】

1465~1543) 室町時代の医者。武州生まれ。号、範翁・廻翁など。中国の明に渡り、金・元代の医学を学び帰国し、後世方ごせいほうの基礎となる学説を伝える。曲直瀬まなせ道三はその弟子。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田代三喜
たしろさんき
(1465―1544)

室町時代の医者。武蔵(むさし)国越生(おごせ)(埼玉県)の生まれ。名を導通、諱(いみな)を三喜、字(あざな)を祖範といい、範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善通など多くの号を用いた。先祖は寿永(じゅえい)年間(1182~1184)の伊豆の人、田代信綱(生没年不詳)で、8代目兼綱が越生に移り、三喜もここで生まれた。1487年(長享1)明(みん)に渡り、留学12年間、李東垣(りとうえん)、朱震亨(しゅしんこう)(丹渓(たんけい))の医学を学んで帰国、足利(あしかが)・古河(こが)に住んだ。古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)の侍医となり、「古河三喜」とよばれた。1531年(享禄4)、京都より足利学校に遊学していた曲直瀬道三(まなせどうさん)が三喜に師事した。三喜は日本における李朱医学の開祖と称され、著書に『和極集(わごくしゅう)』『弁証配剤(べんしょうはいざい)』『印可集(いんかしゅう)』『当流諸沿諸薬之捷術(しょうじゅつ)』『薬種隠名』などがある。天文(てんぶん)13年4月15日没。1537年(天文6)没の説もある。[矢数道明]

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世界大百科事典内の田代三喜の言及

【医学】より

…いずれも,著者の独自の見解がおもに編されている。室町時代に有名な医師として特記すべきものに,田代三喜曲直瀬道三(まなせどうさん),永田徳本らが挙げられる。田代は,足利学校で学んだのち明に渡り,12年間とどまって,新しい医学を修得して帰った。…

【医者】より

…武士を兼ねた金創医は創傷治療を主としていたが,助産や婦人病,さらに小児病などをも治療の範囲としていたから,必然的にこの分野の専門医を生み,実質的な医療の分化をうながした。 戦国期に広まった実地医療を体系づけたのは,田代三喜とその門人曲直瀬道三(まなせどうさん)である。三喜は明に留学して李朱医学を伝え,これをもとに気,血,痰の治療秘訣を明らかにして臨床医学の端緒を開いた。…

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