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中国、前漢の武将。妹の李夫人が武帝に寵愛(ちょうあい)され昌邑哀(しょうゆうあい)王を産んだ。その縁で紀元前104年、大宛(だいえん)国(フェルガナ)弐師(じし)城の良馬奪取の命を受け、弐師将軍の称号を与えられた。最初の遠征は、糧食が尽き敦煌(とんこう)に戻ったが、再度命令を受け、大軍を率い大宛城を包囲し、40日にしてこれを陥れ、良馬多数を得た。さらに康居などの西域(せいいき)諸国もこの遠征の結果漢に服属した。この功績により海西侯に封ぜられた。その後、前99年、前97年の2回匈奴(きょうど)討伐に向かったが、さしたる功を収められず、前90年の3回目の匈奴遠征中、妻子が巫蠱(ふこ)の獄に連座した。彼はその罪を償うため軍功をあげようと、匈奴の敵地深く攻め入ったが敗北して捕らえられ、殺された。
[飯尾秀幸]
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?~前89
前漢代の武人。太初元年(前104),貳師(じし)将軍となり,善馬の獲得をめざして大宛(だいえん)(フェルガナ)を征討するが失敗,2年後に再遠征して漢の支配下に置く。征和3年(前90)には,匈奴(きょうど)との戦闘に敗れて投降。単于(ぜんう)に重用されるが,讒言(ざんげん)にあって殺害された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…中国では古来名馬を天馬と称しているが,《史記》の大宛列伝によると,〈はじめ烏孫の馬を天馬と名づけたが,大宛の汗血馬を得てみるといっそうたくましく,そこで大宛の馬を天馬と称し,烏孫の馬を西極(せいきよく)と改めた〉と記されている。前104年(太初1),武帝が李広利に弐師(じし)将軍を名のらせて大宛征伐を敢行したのは,汗血馬を獲得するためであった。李広利は2度目の遠征で良馬数十頭に中馬以下3000余頭を得て凱旋すると,武帝は〈西極天馬の歌〉をつくらせたといわれる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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