村岡花子(読み)ムラオカハナコ

デジタル大辞泉 「村岡花子」の意味・読み・例文・類語

むらおか‐はなこ〔むらをか‐〕【村岡花子】

[1893~1968]翻訳家・児童文学者。山梨の生まれ。本名、はな。「赤毛のアン」シリーズなど海外の児童文学を多数翻訳したほか、創作童話も発表した。

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精選版 日本国語大辞典 「村岡花子」の意味・読み・例文・類語

むらおか‐はなこ【村岡花子】

  1. 児童文学者、評論家、翻訳家。本名はな。山梨県出身。東洋英和女学院卒。「赤毛のアン」「王子とこじき」など多くの翻訳や創作童話がある。明治二六~昭和四三年(一八九三‐一九六八

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知恵蔵 「村岡花子」の解説

村岡花子

日本の翻訳家・児童文学者。本名は村岡はなで、旧姓安中(あんなか)。1893年、山梨県甲府市生まれ。
「赤毛のアン」を含む多くのモンゴメリの著作を始め、児童向け・家庭向けの文学作品や絵本を多数翻訳し、日本に紹介した。
父・逸平は熱心なクリスチャンで、社会主義運動家。逸平の希望で、2歳の時カナダ・メソジスト派の幼児洗礼を受ける。女4人、男4人の兄弟の長女。
家庭は貧しかったが、逸平は花子の利発さを認め、華族富豪の娘が多く学ぶ東京・麻布のカナダ系ミッションスクール、東洋英和女学校に編入学させるため奔走。1903年、予科1年生に給費生(国・学校・団体などから費用、特に学費を支給される奨学生)として編入を許される。厳しい英語教育と生活指導を受けるなか、08年、東洋英和の寄宿舎に、8歳年上の柳原燁子(後に歌人・白蓮)が編入。互いに「花ちゃん」「燁さま」と呼び合う親友となった。
09年、燁子の紹介で、歌人・佐佐木信綱が主宰する短歌結社竹柏会に入門する。短歌の創作や日本の古典文学を学び、また生涯にわたる友人となる歌人でアイルランド文学の翻訳家・片山廣子と出会う。13年に東洋英和女学院を卒業し、翌年、山梨英和女学校へ英語教師として赴任。この頃、少女向け文芸雑誌「少女画報」に童話や小説を寄稿。
17年には、日本基督教興文協会から初めての本「爐邉(ろへん)」を出版。19年、教師を辞め、東京・築地の日本基督教興文協会に勤め、翻訳と編集に携わる。訳書モーセ修学せし國」を出版し、印刷を担当した福音印刷の支社長でクリスチャンの村岡●(にんべんに敬)三(けいぞう)と恋に落ち、結婚。長男・道雄が誕生する。
23年、関東大震災により福音印刷が倒産し、翻訳や童話の執筆で生活を支える。24年、「青蘭社書房」を自宅に立ち上げる。26に年、道雄を病で亡くす。悲しみの中、「ザ・プリンス・アンド・ポパー」に感銘を受け、子どもも大人も楽しめる家庭文学の翻訳を天職と考えるに至る。27年に、訳書「王子と乞食」を刊行。
32年からは、ラジオJOAK放送局(NHKの前身)の初の子ども向けラジオ番組で、ニュースのコーナー「子供の新聞」のアナウンスを担当し、ラジオのおばさんと親しまれる。毎回の番組を締めくくる「それではごきげんよう!さようなら」というあいさつは人気を博し、流行した。41年の第2次世界大戦開戦を機にやめるまで続ける。
39年、世界情勢が悪化するなか、カナダ人宣教師のロレッタ・レナード・ショーから、友情の記念に「アン・オブ・グリン・ゲイブルズ」の原著を託され、翻訳を始める。これが後の「赤毛のアン」で、52年に、三笠書房より刊行された。同年夏、日本初の家庭図書館「道雄文庫ライブラリー」を自宅に開き、67年まで続けた。
戦後は、文部省嘱託や日本ユネスコ協会連盟副会長として、教育改革や福祉事業など社会活動にも広く携わった。57年には、日本翻訳家協会副会長就任し、60年に、児童文学への貢献により藍綬褒章を受章する。68年に脳血栓により死去。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2014年)

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20世紀日本人名事典 「村岡花子」の解説

村岡 花子
ムラオカ ハナコ

大正・昭和期の児童文学作家・翻訳家 日本ユネスコ協会連盟副会長。



生年
明治26(1893)年6月21日

没年
昭和43(1968)年10月25日

出生地
山梨県甲府市

本名
村岡 はな

学歴〔年〕
東洋英和女学院高等科〔大正2年〕卒

経歴
女学校在学中から童話を書き始める。卒業後、3年間甲府英和学校で教壇に立ったあと、教分館で婦人子ども向けの本の編集に携わる。昭和2年同人誌「火の鳥」を創刊し創作に励む。同年最初の翻訳、マーク・トウェインの「王子と乞食」を刊行し好評を得る。7年JOAK(NHKの前身)の嘱託となり、昭和10年代にラジオ「コドモの新聞」の解説を担当、そのなごやかな話しかけるような調子で“ラジオのおばさん”として親しまれた。戦後は、モンゴメリの「赤毛のアン」(全10巻)などの名訳で知られたほか、東京婦人会館理事長、総理府行政監察委員、日本ユネスコ協会連盟副会長、NHK理事、キリスト教文化委員会婦人部委員などをつとめ、幅広く活躍した。ほかの訳書に、ポスター「喜びの本」、バーネット「小公子」「小公女」、オルコット「若草物語」、ディケンズ「クリスマス・カロル」など多数。童話集に「紅い薔薇」「お山の雪」「桃色のたまご」「青いクツ」などがあり、随筆集に「母心抄」がある。東京・大森に“赤毛のアン記念館・村岡花子文庫”がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「村岡花子」の意味・わかりやすい解説

村岡花子
むらおかはなこ
(1893―1968)

翻訳家、児童文学者、評論家。山梨県生まれ。東洋英和女学院高等科卒業。1932年(昭和7)から41年までJOAK(現NHKラジオ)の嘱託として子供ニュースを担当、人気を集めた。『たんぽぽの目』(1941)などの童話集を出版したほか、第二次世界大戦後はモンゴメリーの『赤毛のアン』を翻訳出版し、現在も多くの読者をもっている。作家活動のほかに政府の各種委員や諸文化団体の役員を務め、多面的な活躍をした。

[二上洋一]

『村岡花子訳『赤毛のアンシリーズ』全10巻(1973・講談社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村岡花子」の解説

村岡花子 むらおか-はなこ

1893-1968 大正-昭和時代の児童文学者。
明治26年6月21日生まれ。昭和7年から16年までラジオの子供ニュースを担当,全国的にしたしまれる。モンゴメリー「赤毛のアン」シリーズの翻訳で知られ,社会教育の各種委員としても活躍した。昭和43年10月25日死去。75歳。山梨県出身。東洋英和女学院高等科卒。旧姓は安中(あんなか)。作品に童話集「たんぽぽの目」など。

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367日誕生日大事典 「村岡花子」の解説

村岡 花子 (むらおか はなこ)

生年月日:1893年6月21日
大正時代;昭和時代の児童文学者。日本ユネスコ協会連盟副会長
1968年没

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