村田新八(読み)ムラタシンパチ

デジタル大辞泉 「村田新八」の意味・読み・例文・類語

むらた‐しんぱち【村田新八】

[1836~1877]薩摩藩士西郷隆盛に従って国事に奔走。西南戦争では薩軍の大隊長として活躍し、城山戦死した。

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精選版 日本国語大辞典 「村田新八」の意味・読み・例文・類語

むらた‐しんぱち【村田新八】

  1. 幕末志士。薩摩藩士。西郷隆盛の腹心として国事に奔走した。明治四年(一八七一)宮内大丞。岩倉遣外使節随員を務めたが、征韓論で敗れ、鹿児島砲兵学校の監督となった。西南の役で活躍したが、城山で西郷らと自刃。天保七~明治一〇年(一八三六‐七七

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朝日日本歴史人物事典 「村田新八」の解説

村田新八

没年:明治10.9.24(1877)
生年:天保7.11.3(1836.12.10)
幕末明治期の薩摩(鹿児島)藩士。同藩士高橋良中の第3子,村田経典の嗣,諱は経満。年少より西郷隆盛に兄事した。文久2(1862)年,島津久光上洛に際し,西郷と共に先発,京坂の形勢に対処したが,過激派を扇動したと,久光の怒りを買い,西郷は徳之島に新八は鬼界が島に流された。元治1(1864)年,赦免されるや,西郷を助けて王政復古運動に挺身し,戊辰戦争には薩摩藩軍の軍監として東北地方の戦線に軍功があった。明治4(1871)年,宮内大丞,次いで岩倉遣外使節団の理事官随行員となり米欧を巡遊,征韓論政変後に帰国,直ちに鹿児島に帰り,桐野利秋,篠原国幹らと私学校の経営に携わり,特に砲隊学校の監督に任じた。西南戦争では,薩摩軍2番大隊長として各所に奮戦,城山で最後の抵抗を遂げ戦死した。西郷のみならず,大久保利通にも将来を嘱目された。勝海舟は「大久保利通に亜ぐ傑物なり。惜哉,雄志を齎して非命に斃れたることを」と評したという。<参考文献>『西南記伝』下の2

(福地惇)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「村田新八」の解説

村田新八 むらた-しんぱち

1836-1877 幕末-明治時代武士,士族
天保(てんぽう)7年11月3日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。西郷隆盛に兄事し,尊攘(そんじょう)運動に活躍。明治4年宮内大丞(くないだいじょう)となり,岩倉遣外使節団にくわわる。帰国後辞職し,篠原国幹(しのはら-くにもと)らと私学校をつくる。西南戦争では薩軍二番大隊長としてたたかい,明治10年9月24日城山で戦死。42歳。本姓は高橋。名は経満(つねみつ)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「村田新八」の意味・わかりやすい解説

村田新八
むらたしんぱち

[生]天保7(1836).11.3. 鹿児島
[没]1877.9.24. 鹿児島,城山
幕末~維新期の薩摩藩士。宮内大丞。西郷隆盛に従って国事に尽力。岩倉遣外使節に随行して欧米をまわり,帰国後,官を辞して西郷隆盛に従い鹿児島に帰郷,砲兵学校監督となった。西南戦争で薩軍大隊長として自決。

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367日誕生日大事典 「村田新八」の解説

村田 新八 (むらた しんぱち)

生年月日:1836年11月3日
江戸時代;明治時代の鹿児島藩士;軍人。宮内大丞
1877年没

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