明治時代初期の陸軍軍人。天保(てんぽう)7年12月5日、薩摩(さつま)藩士篠原善兵衛の子に生まれる。通称冬一郎。藩校造士館(ぞうしかん)に学び読書教授の初歩をつかさどる句読師(くとうし)に進む。1863年(文久3)の薩英戦争に活躍。1868年(慶応4)戊辰(ぼしん)戦争に薩藩三番小隊長となり会津城攻略に参加。1869年(明治2)鹿児島常備大隊長。1871年政府に入り陸軍大佐。1872年陸軍少将、近衛(このえ)局出仕。1873年朝鮮使節派遣をめぐる政府分裂(いわゆる明治六年の政変)で下野。1874年同志と私学校を設立。1877年西南戦争に西郷軍一番大隊長として出陣、3月4日吉次越(きちじごえ)の戦闘において戦死した。
[毛利敏彦]
(福地惇)
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…本校は旧近衛兵の銃隊学校と砲兵出身者による砲隊学校よりなる。前者は篠原国幹が主宰し生徒数は500~600名,後者は村田新八が監督し生徒数約200名であったという。学課は軍事のほか《春秋左氏伝》などの漢学をも講じ,また校中を数十組に分け,輪番制で日々の当直をきめ,出校は午前9時,退出は正午とされた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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