改訂新版 世界大百科事典 「東三洞遺跡」の意味・わかりやすい解説
東三洞遺跡 (とうさんどういせき)
Tongsamdong-yujǒk
韓国,慶尚南道の釜山直轄市影島区東三洞にあって,櫛目文土器時代(新石器時代)における,朝鮮半島南岸地方の代表的遺跡として著名である。遺跡は,釜山港内の影島の中部,南東海岸の汀線に近い傾斜面から平たん面にかけて立地する。1930,32年に発掘が行われ,さらに63,64年,そして69年から3年にわたってそれぞれ発掘調査が行われた。これまでの調査は,主として貝層の発掘に主眼がおかれてきたため,生活遺構を含めた集落の全貌はわかっていない。住居跡に付随したと思われる石囲いの炉跡や,一種の積石塚と推定される墓地の検出は,数少ない遺構として注目される。これまでに採集された遺物は,櫛目文土器,石器,骨角器,獣骨,魚骨,貝など多岐にわたり,数量も膨大なものになる。69-71年の調査では,貝塚の層位が大きく三つの文化層に分けられた。最下層の東三洞Ⅰ期層は,櫛目文土器が出現する前段階に位置づけられる。ここからは無文,丸底・尖底の小型鉢,口縁部に2条の交叉した短斜線列文をめぐらした尖底の小型鉢,隆起文のある平底の深鉢などと共伴して,縄文時代前期の轟式,塞ノ神式,曾畑式土器が出土した。東三洞Ⅰ期層には,刃部を局部的に磨製したケツ岩製扁平石斧,貝輪,骨器などが伴った。ついで中間層である東三洞Ⅱ期層では,櫛目文のある土器が大量に出現した。広口の口縁と尖底をもつ深鉢や,鉢・壺などの器表面に短線列文,斜格子文,綾杉文,組帯文を描いている。それらに,縄文時代中期の阿高(あたか)式および阿高系土器が伴出した。東三洞Ⅱ期層には,黒曜石製石器が伴い,この時期にカキ類の採集が盛行した。上層の東三洞Ⅲ期層では,二重口縁に,無文の平底土器が多くなる。この層からは,縄文時代後期の西平式と鐘ヶ崎系土器が共伴した。このように,櫛目文土器時代の全期間にわたって貝層が形成され,また,日本の縄文文化とも交流をもったことがわかる。遺跡の立地や遺物からみて,漁労活動を主要な生業としながら,背後の山中では狩猟を行い,さらに,ある時期からは,集落の周辺で簡単な原始農耕も開始していたことが推測される。
執筆者:西谷 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報