改訂新版 世界大百科事典 「東京絵入新聞」の意味・わかりやすい解説
東京絵入新聞 (とうきょうえいりしんぶん)
明治前期に東京で発行された代表的な小新聞(こしんぶん)(大(おお)新聞・小新聞)。日刊。1875年に創刊された《平仮名絵入新聞》(隔日刊)が《東京平仮名絵入新聞》と改題され,さらに76年に《東京絵入新聞》と再改題された。題字の変遷が示すとおり,平仮名の文章と挿絵入りの紙面を売物に,江戸時代から草双紙に親しんできた町人や婦女子に愛読された。《東京日日新聞》創刊にもかかわった社主落合芳幾(よしいく)(1833-1904)が有名な浮世絵師であったため,みずから彫刻して社会記事(雑報)に適した挿絵を入れた。また,戯作者高畠藍泉(たかばたけらんせん)(1838-85)も編集長として活躍し,染崎延房(のぶふさ)(1818-86。通称為永春笑,のち春水),前田香雪(こうせつ)(1841-1916)とともに特色ある紙面づくりに貢献した。とくに前田は1875年《岩田八十八(やそはち)の話》を連載し,好評を博した。これは裁判記録を戯作風に続きものにしたもので,新聞小説の元祖といえる。高畠,前田らは社会記事を戯作風続きものに次々と小説化することによって,小新聞の社会記事に新生面をひらいた。このように落合の絵と前田らの文章が同紙の小新聞としての地位を高めた。
西南戦争から自由民権運動高揚期にかけても順調に発展し,81年には先輩格の《読売新聞》を発行部数で上回るほどとなった。高畠は落合と衝突して《読売新聞》へ去ったが,前田,染崎らが健筆をふるった。自由民権期には改進党系に色分けされたものの,社説などは設けず,社会記事,連載,挿絵などを特色としていたため,筆禍にあうことはまれであった。この時期に坪内逍遥が〈春のやおぼろ〉の筆名で雑文を投書していた。しかし自由民権運動が衰退するとともに急速に部数が減り,86年には5000部を割り,1万3000部の《読売新聞》に大きく水をあけられた。そして89年に《東西新聞》と改題されたが,まもなく廃刊となった。創刊時から落合が経営の実権を握っていたが,《朝日新聞》や《読売新聞》のような報道重視の新聞史の流れに対応した編集方針を打ち出せなかった。
執筆者:山本 武利
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報