デジタル大辞泉
「読売新聞」の意味・読み・例文・類語
よみうり‐しんぶん【読売新聞】
読売新聞グループ本社傘下の新聞社3社が発行する日刊全国紙。グループ本社は東京都千代田区大手町にある。明治7年(1874)子安峻らが東京で創刊。昭和17年(1942)「報知新聞」を合併。昭和27年(1952)「大阪読売新聞」を発刊、翌昭和28年(1953)題字を「読売新聞」に統一。プロ野球球団、読売ジャイアンツを保有する。朝刊販売部数は約601万部(2024年2月)。
[補説]読売新聞の部数の推移
2001年…1028万部(最高記録)
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2010年…1002万部
2011年…996万部
2012年…994万部
2013年…987万部
2014年…926万部
2015年…914万部
2016年…895万部
2017年…873万部
2018年…834万部
2019年…794万部
2020年…738万部
2021年…704万部
2022年…664万部
2023年…618万部
(各年の下期平均部数)
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よみうり‐しんぶん【読売新聞】
- 日刊新聞の一つ。明治七年(一八七四)東京で創刊。初め、ふりがなつきの雑報を主とする通俗新聞であったが、やがて文学新聞として知られ、大正一二年(一九二三)の関東大震災後、一般紙となった。昭和一七年(一九四二)「報知新聞」を合併、同二七年には大阪に進出し、「大阪読売新聞」を発刊したが、同二八年に題号を「読売新聞」に統一した。東京・大阪・北九州に本社をおく。
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読売新聞
よみうりしんぶん
日本の代表的な全国紙の一つで、世界最大の発行部数を誇る。
1874年(明治7)11月2日、子安峻(たかし)(1836―1898)らが東京で創刊。当初は小(こ)新聞として、俗談平話、振り仮名つきの隔日刊紙だったが、たちまち庶民の人気を集め、新聞界第一の発行部数を獲得、翌年5月1日から日刊紙となった。1890年1月本野盛亨(もとのもりみち)が社長となり、高田早苗(さなえ)(主筆)、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)が入社すると文芸新聞としての色彩が強くなり、幸田露伴(こうだろはん)、尾崎紅葉(こうよう)(『金色夜叉(こんじきやしゃ)』など主要作のほとんどを紙上で発表)ほか多くの文人が入社、紙面を飾った。明治末期には、社員正宗白鳥(まさむねはくちょう)の人脈から自然主義作家が『読売新聞』を舞台に活躍した。
[春原昭彦]
しかしこの間、報道新聞化への動きに取り残され、しだいに経営は苦境に陥ってきたため、1919年(大正8)9月、本野家の経営を離れ、松山忠二郎(元『東京朝日新聞』編集局長)が社長になった。松山は編集の人材を入社させるとともに通信網の充実を図り、紙面を刷新したため、世間の人気は急速に高まった。しかし松山の挽回(ばんかい)策も、1923年9月1日に起こった関東大震災で、落成したばかりの新社屋が被災したため挫折(ざせつ)、翌1924年2月25日、虎の門事件(とらのもんじけん)の責任で警視庁警務部長を免官になった正力(しょうりき)松太郎が買収してから発展の途をたどることになる。正力は、経営に乗り出すと、紙面を改革するとともに、1925年11月15日いち早くラジオ版を新設、翌年には日曜夕刊を発行するなどの新機軸を打ち出す一方、本因坊・雁金(かりがね)戦をはじめとする数々の囲碁・将棋対局、空前の日本名宝展開催、職業野球の創始など、次々に独創的企画を打ち出し、紙面に掲載、人気を集めた。
[春原昭彦]
1931年(昭和6)9月満州事変が起こると、11月25日から夕刊を発行、従来の併読紙から報道重視の主読紙として、『朝日新聞』『毎日新聞』に対抗する途を歩み始める。1929年8月には務台光雄(むたいみつお)(1896―1991)が入社、販売面を一手に引き受け、以後、正力・務台のコンビで関東、東北に部数を伸ばし、第二次世界大戦前すでに東京第1位の部数を誇った。1942年8月、戦時新聞統合で『報知新聞』を合併、『読売報知』と改題した。
第二次世界大戦後は、1945年(昭和20)10月から1946年にかけての2次にわたる争議(読売新聞争議)、正力社長の戦犯容疑者指名・追放などの危機を、新社長馬場恒吾(つねご)の下で切り抜けた。1946年5月『読売新聞』に復題し、1952年11月には『大阪読売新聞』を発刊(1953年『読売新聞』に題字統一)、以後、専売制復帰とともに全国に紙数を伸ばした。1959年札幌で印刷発行を開始したのに続き、1961年高岡、1964年北九州に進出、1975年3月には『中部読売新聞』を名古屋の傍系社から発行(1988年合併、『読売新聞』に題字統一)、青森でも印刷と、全国に発行地を広げた。1977年には日本の新聞界で初めてアメリカに進出、ニューヨークで現地印刷を開始した(2003年10月休刊)。
[春原昭彦]
1990年代以降は、国際衛星版を東南アジア(バンコク)、ヨーロッパ、香港(ホンコン)で発行、国内では、1997年(平成9)に東京、大阪、西部の3本社、北海道、中部、北陸の3支社、二十数か所の分散印刷工場を結ぶ新しい情報処理システムを構築した。紙面では、政治、行政や日本の進路などに数々の提言を発表して話題をよんでいるほか、「医療・教育のルネサンス」を唱えた長期連載などが注目されている。1999年には経営難に陥った中央公論社を傘下に収めるなど業務を拡大、最近ではインターネット上でのウェブサイトの開設にも意欲を燃やしている。現在、アメリカ(ワシントン)、欧州(ロンドン)、アジア(バンコク)、中国(北京(ペキン))の4総局、世界30か所に支局を置いているほか、AP(アメリカ)、ロイター(イギリス)、AFP(フランス)、朝鮮通信などの通信社、世界の有力紙誌と特約を結び、取材網の充実を図っている。発行部数朝刊1001万部、夕刊355万部(2010)。
[春原昭彦]
『読売新聞百年史編集委員会編『読売新聞百年史』(1976・読売新聞社)』▽『読売新聞社社史編集室編『読売新聞発展史』(1987・読売新聞社)』▽『読売新聞社編『読売新聞百二十年史』(1994・読売新聞社)』
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読売新聞 (よみうりしんぶん)
日本における三大新聞の一つ。1874年11月2日子安峻(こやすたかし)(初代社長),本野盛亨,柴田昌吉により創刊された。当初は平易通俗を旨としたふりがなつきの雑報記事を主体とする〈小新聞(こしんぶん)〉だったが,高田早苗の主筆時代(1887-91)には活発な政治論評を行うようになり,一時改進党寄りと目された。明治後半期には坪内逍遥,幸田露伴,尾崎紅葉らが在社し,とくに紅葉は《多情多恨》《金色夜叉》などの名作を連載し,文学新聞としての全盛時代を築いた。日露戦争から明治末期にかけては,島村抱月,田山花袋,島崎藤村,正宗白鳥ら自然主義作家が作品を発表し,この文芸重視の傾向は大正前半期まで続いた。大正政変の際,桂太郎内閣支持の論説を掲げたため群衆の襲撃を受けたこともあった。1890年以来1919年まで経営に当たっていた本野家が退き,松山忠二郎が社長に就任した。松山は報道・論説の強化を企てたが,関東大震災の打撃もあって経営が悪化,24年その後任に虎の門事件で官界を去った元警視庁警務部長正力松太郎が就任した。正力は経営合理化による再建を進めるとともに,一般ニュースの充実,社説の常設化,夕刊の発行(1931年11月),スポーツ・趣味・娯楽記事(ラジオ版の創設,囲碁将棋欄の拡張など)の強化のほかアメリカ野球チームの招待,自殺続発騒ぎの三原山火口の探査などで話題を呼び,読者を吸引,《読売》を質量両面で急伸させ,さらには大阪系の新聞との販売競争をしのぎ切り,長く二流紙あつかいされてきた《読売》は一躍《東京朝日新聞》《東京日日新聞》に比肩する有力紙に成長した。1924-34年の間に部数は10倍になり,さらに5年後には100万部を超えた。30年代後半には論説の強化,センセーショナリズム的傾向の是正など質的向上の努力を続け(1937年他紙に先駆け従来広告面だった1面を記事面化した),日中事変勃発後は特派員の大量投入で報道合戦に処するとともに,海外通信網を急速に整備した。41年経営難の《報知新聞》を買収,42年8月戦時期の新聞統合により合併し《読売報知》となった。
第2次大戦直後には2次にわたる〈読売争議〉が起こった。46年5月題号を《読売新聞》に復し,《報知》は同年末夕刊紙として再発足した(1949年《読売》が経営権を取得,翌年から朝刊のスポーツ紙となる)。第2次大戦中までは東日本を主な販路としていたが,52年念願の大阪進出を果たし,64年には九州での発行を開始,また中京地方では姉妹紙《中部読売新聞》を75年に創刊した。《読売》は70年代に《朝日》との間で販売競争を展開,77年に部数全国一となった(2006年現在,朝刊約1003万部)。戦後の《読売》は真実と公平と友愛,左右独裁思想への反対などを〈読売信条〉(1946制定)に掲げ,報道中心の紙面作りを行っている。東京本社(北海道支社,北陸支社を擁す)と大阪本社,西部本社によって構成されていたが,88年に中部読売新聞社と合併し中部本社を設けた。2004年現在,資本金は10億円である。放送界にも進出,プロ野球チームの巨人軍の親会社としても知られる。社史には《読売新聞百年史》(1976)がある。
執筆者:佐々木 隆
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読売新聞
よみうりしんぶん
日本の代表的な日刊の全国紙。 1874年 11月2日子安峻らが創刊。初め隔日刊であったが,75年9月から日刊となり,市井の出来事や読み物を中心とした小 (こ) 新聞として部数を伸ばした。明治中期には坪内逍遙,尾崎紅葉,幸田露伴らの入社で文学新聞としても異彩を放ったが,後半からは経営が傾き,1924年2月正力松太郎が買受けた。正力はラジオ版の創設,日曜夕刊や大日本東京野球倶楽部 (読売巨人軍の前身) など,紙面,事業面で積極的な企画を打出し,社運を盛返した。 42年戦時統合で『報知新聞』と合併し『読売報知』と改題。 46年5月『読売新聞』に復題。 77年発行部数日本一を達成した。東京本社,大阪本社,西部本社のほか,北海道支社,北陸支社,中部支社を有す。発行部数は約 1020万部で,世界最多を誇っている。
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読売新聞
よみうりしんぶん
1874年(明治7)11月2日,東京で創刊された小新聞(こしんぶん)の始祖。総振り仮名付きの談話に近い文体と雑報中心の紙面,紙名の由来である街頭での呼売りで人気を獲得,発行部数で大新聞を抜き去った。89年本野盛亨(もとのもりみち)が初代経営者子安峻(こやすたかし)の後を継ぎ,坪内逍遥・尾崎紅葉らが入社すると,硯友社の作家が活躍,文学新聞として名高くなった。1924年(大正13)3月正力松太郎が社長に就任,部数を伸ばした。42年(昭和17)8月,新聞統合により「報知新聞」を合併し「読売報知」となったが,戦後旧名に復帰。「朝日」「毎日」と激しい販売合戦を展開し,日本最大の発行部数を誇る新聞に成長した。販売部数約926万部(2014)。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
読売新聞
株式会社読売新聞東京本社、同大阪本社、同西部本社が発行する日刊紙。“四大新聞”と呼ばれる大手全国紙のひとつ。1874年、子安峻(こやすたかし)らが東京で創刊。当初は隔日刊だったが翌年には日刊化。尾崎紅葉、幸田露伴らが在籍し、日本で初めて新聞小説欄を設けた。尾崎の代表作「金色夜叉」は本紙で連載されたもの。1942年、戦時中の新聞統合政策により「報知新聞」と合併、「読売報知」となる。戦後の1946年に「読売新聞」に復題。全国に発行地を広げ、現在に至る。
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読売新聞
よみうりしんぶん
『朝日新聞』『毎日新聞』と並ぶ日本の代表的日刊新聞
1874年東京で創刊。庶民向きのいわゆる小新聞で,総ルビ・口語体を採用。大正時代に不振に陥ったが,1923年正力松太郎が社長となって,朝日・毎日につぐ新聞になった。戦時中『報知新聞』を併せ『読売報知』となったが,戦後旧名の『読売新聞』に復し,日本最大の発行部数を誇る全国紙に成長した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の読売新聞の言及
【赤新聞】より
…1892年黒岩涙香の創刊した《万朝報》が〈娯楽的毒舌新聞〉(正岡芸陽の言葉)として売り出したのがその最初で,同紙が淡紅色の用紙だったことからこの名が生まれたともいう。昭和の初め《読売新聞》が正力松太郎新社長のもとで部数を増していったころにも,新聞界の一部にこれと似たセンセーショナリズムの傾向が見られた。[イェロー・ジャーナリズム]【荒瀬 豊】。…
【大新聞・小新聞】より
…小新聞の世界では大新聞ほどはっきりした政党色はなかったが,自由民権運動が高揚するとともにその色彩が多少とも現れる。《読売新聞》《仮名読新聞》《東京絵入新聞》《絵入自由新聞》などが主要な小新聞である。なお,大阪では大新聞として《大阪日報》,小新聞として《浪花新聞》《朝日新聞》が代表格である。…
【子安峻】より
…明治期の新聞・出版経営者。《[読売新聞]》の初代社長。岐阜大垣藩士として生まれる。…
【正力松太郎】より
…内務省に入り累進して警視庁警務部長になったが,1923年(大正12)12月[虎の門事件]で引責辞職。翌24年2月,経営難で不振の〈《[読売新聞]》〉を買い受け社長に就任,新聞界に転じた。意表をつく新企画の連発と積極経営で社勢拡大に成功,41年(昭和16),読売は発行部数で〈《朝日新聞》〉〈《毎日新聞》〉をおさえ東日本最大の新聞に成長した。…
【読売争議】より
…敗戦直後の1945年10月,読売新聞社の従業員は正力松太郎社長以下幹部の戦争責任を追及し,社内機構の民主化,待遇改善など5項目の要求を掲げて新聞の編集・製作・発送を自主管理する[生産管理闘争]に立ち上がった。この争議は同年暮れ,組合側が勝利を収め,経営協議会を設けて労働者が経営に参加,編集を資本から分離して,《読売新聞》が〈民衆の友となり……人民の機関紙たること〉を宣言した。…
※「読売新聞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」