東山田村(読み)ひがしやまたむら

日本歴史地名大系 「東山田村」の解説

東山田村
ひがしやまたむら

[現在地名]三和町東山田

飯沼新田いいぬましんでん西方の台地に所在。北は仁連にれ村、西は山田村。飯沼に面した向山むかいやま台地は縄文後期・晩期の遺物散布地。字大綱おおづなには弥生時代から古墳時代の住居跡があり、弥生土器片、土師器の坏・甑・高坏が出土。この遺跡の北方、飯沼西岸台地の五十塚ごじゆうづか古墳群には大小五〇基近い古墳があったという。第二次世界大戦前の西仁連川改修工事で陪冢の大半は失われ、昭和二五年(一九五〇)の調査では砂岩などでつくられた石室を伴う古墳が二三基確認された。現存する三基のうち一基は円墳で径六〇メートル・高さ一〇メートル、周湟一〇メートルを有する。ほかは円墳と前方後円墳。出土品は直刀・埴輪須恵器・土師器など。現在この付近一帯は国際電信電話株式会社の八俣やまた送信所となっている。向山にもつか山と称する前方後円墳があったが消滅。

古代は「和名抄」の八俣郷、中世には山田郷に含まれたと考えられる(→山田村

東山田村
ひがしやまだむら

[現在地名]打田町東山田

西山田村の東に位置し、北は中畑なかはた村、東は重行しげゆき村の山地。村域の大部分は山地で、神領じんりよう村へ続く南端耕地が開ける。中世は池田いけだ庄に含まれた。

慶長検地高目録によれば高一四四石余、小物成一斗一升五合。池田組に属し、元禄二年(一六八九)の池田組指出帳(田中家文書)では田方一五四・二七七石(八町六反余)、畠方一〇・九一九石(一町余)、家数一六、人数一一〇、馬一、牛六とある。また文化四年(一八〇七)の池田組大指出帳写(黒山家文書)は家数二〇で内訳庄屋肝煎・あるき・寺各一、本役八、半役六、無役二、人数七一、池三(蓮池・別所池など)と記す。

東山田村
ひがしやまだむら

[現在地名]大和町大字東山田字東山田・立石たていし

嘉瀬かせ川の西で川上かわかみ扇状地に立地する。

肥前風土記」に出る土蜘蛛の大山田女・狭山田女の伝説にある山田で、「和名抄」の佐嘉郡六郷の一つ山田郷に相当する。山田郷は東郷西郷に分れているが郷域は東山田・西山田を中心に嘉瀬川を越えて東または南にかなり広い範囲にわたっていることが河上神社文書で確かめられる。また貞和四年(一三四八)の竜造寺宗喜譲状(竜造寺家文書)によれば「やまたとうかう於保村」とあり、西山田村よりも西で、南にある於保おほ村が山田東郷に属しており、西山田村・東山田村は山田西郷・山田東郷を意味するものではない。

東山田村
ひがしやまだむら

[現在地名]下諏訪町東山田

現下諏訪町の北西部、諏訪大社下社春宮の西方にあり、東は下原しものはら村、西は西山田にしやまだ村に接する。

天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高弐百八拾六石 東山田郷」とみえる。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「東山田村 家数百六拾弐軒 高三百八拾七石四升七合九勺」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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