西山田村(読み)にしやまだむら

日本歴史地名大系 「西山田村」の解説

西山田村
にしやまだむら

[現在地名]岡谷市長地おさち 中屋なかや中村なかむら横川よこかわ

北は鉢伏はちぶせ山系、西は横河よつかわ川を隔てて今井いまい村、東は東山田ひがしやまだ(現下諏訪町)、南は東堀ひがしぼり村に境を接している。

応安五年(一三七二)の足利義満御教書写(守矢文書)に「小井川・山田両郷事、所被預置也」と記されてあり、天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)に「高六百拾石 西山田郷」とある。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には、「家数百七拾軒 寺二カ所 高七百六拾九石七斗四升四合六勺」と記されている。

西山田村
にしやまだむら

[現在地名]大和町大字川上かわかみ字西山田・小隈こぐま

嘉瀬かせ川が川上渓谷から佐賀平野へ出る際にできた川上扇状地の、西の扇側に発達した村。

山田は「肥前風土記」にある土蜘蛛の大山田女・狭山田女の伝説の山田であり、「和名抄」の佐嘉郡六郷の一つ山田郷に相当する。山田郷には東郷西郷があったが、地域は大きな広がりをもっていた。渓口にあって文化の発達が早く、縄文時代の石匙や弥生時代の石包丁、弥生式土器が小隈で発見され、小隈山古墳は主軸六四メートルの、丘陵を利用して作られた前方後円墳で、円筒埴輪須恵器が発見されている。また小隈山古墳の西南八〇メートルにある円墳の小隈古墳は、封土の径一八メートル、高さは約二・七メートルで、四基の箱式石棺を内蔵していた。

西山田村
にしやまだむら

[現在地名]打田町西山田

今畑いまはた村の東南に位置し、村域の大部分は山地で、東南部の倉谷くらたに川扇状地に集落が集まり、わずかな耕地がある。東は東山田村。中世は池田いけだ庄に含まれた。

慶長検地高目録では高二二二石余。池田組に属し、元禄二年(一六八九)の池田組指出帳(田中家文書)では田方一九五・五八四四石(一二町三反余)、畠方二二・七八六六石(一町九反余)、家数二二、人数九一、牛九とある。また文化四年(一八〇七)の池田組大指出帳写(黒山家文書)には家数一八で内訳は庄屋・肝煎・あるき・寺各一、本役一一、無役三、人数七八、池二(谷ノ池・奥ノ池)と記す。

西山田村
にしやまだむら

[現在地名]姫路市山田町西山田やまだちようにしやまだ

牧野まきの村の北東に位置し、平田ひらた川流域の扇状地と谷底平野に立地する。集落は南部山麓の扇状地上にある。東は南山田村、北は北山田村。中世は蔭山かげやま庄の内で山田村と称された。慶長国絵図にも山田村とみえ、江戸時代初期に三ヵ村に分村した。正保郷帳に西山田村とみえ、田方一〇八石余・畑方二四石余。元禄郷帳では高一一五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報