東照宮跡(読み)とうしようぐうあと

日本歴史地名大系 「東照宮跡」の解説

東照宮跡
とうしようぐうあと

[現在地名]会津若松市城南町・城東町

二の丸・三の丸の南、天神橋てんじんばし口から東部のいちだんと高い所に、北に東照宮、南に延寿えんじゆ寺と熊野権現、東奥に豊岡とよおか神社があった。東照宮は老杉に囲まれた優れた地形にあり、寛永元年(一六二四)蒲生忠郷が外祖父徳川家康のために勧請し、法器・法衣等を寄進した。加藤明成や保科正之のときは神指こうざし村から二〇〇石の神領を寄進、鳥居表門・石灯籠九基・韓門・拝殿幣殿本殿等、華麗な宮殿が立並んでいた。別当天台宗延寿寺は東照宮の南にあり、天安二年(八五八)慈覚大師創建と伝え、長禄四年(一四六〇)英海が初めて灌頂の法を行ったという。その頃から熊野権現の社務をつかさどり、忠郷のときに東照宮の別当寺となった(新編会津風土記)


東照宮跡
とうしようぐうあと

[現在地名]福井市宝永四丁目

福井城の北部、三の丸帯郭にあった。現存しない。寛永五年(一六二八)神明社の西隣に東照大権現(徳川家康)を祀ったのに始まる。別当は天台宗万福山泉蔵せんぞう瑠璃光るりこう寺であった。翌年社領として吉田よしだ米松よねまつ村内三〇〇石が寄進された。寛文九年(一六六九)火災に類焼後、三の丸清水しみず御門内に再建された。明治六年(一八七三)さいわい橋北詰西方に福井藩主結城秀康を祀った佐佳枝廼さかえの社が創建され、翌七年当社に合祀された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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