延寿寺(読み)えんじゆじ

日本歴史地名大系 「延寿寺」の解説

延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]熊本市河原町

長六ちようろく橋右岸、もとの新古川しんふるかわ町にあり、青龍山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。「国誌」によれば、大永二年(一五二二)空珍が合志こうし板井いたい(現菊池郡七城町)に開基したのに始まる。当時は西派で、西本願寺内興正こうしよう末寺。二世月感(円海)の時、慶長六年(一六〇一)ふる町の現在地に移建したという(同一六年ともいう)。しかしこの間約八〇年あり、年代に誤りがあると思われる。寛文五年(一六六五)には東派に転派し、東本願寺の末寺となる。この間の事情は「肥後名僧伝」に次のように記される。


延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]下京区本塩竈町

西山浄土宗。無量山と号し、本尊は阿弥陀如来・釈迦如来大日如来の三尊。中世には俗に金仏かなぶつ寺とも称した。「扶桑京華志」が「後白河院之本願而平忠盛奉行之」と記すように、後白河院の御所とされた六条ろくじよう殿(現下京区)のなかに建てられた長講ちようこう堂をその前身とする。現在の本尊は慶応二年(一八六六)以降の木像であるが、創建時の三尊は長寛元年(一一六三)一二月後白河上皇の御願により蓮華王れんげおう(三十三間堂、現京都市東山区)を供養した際、諸所の捧物をもって造らしめたもので、その鋳型は運慶作という。


延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]多久市南多久町下多久字外廻

陣内館じんのうちやかた跡にある。安国山と号し、臨済宗。本尊観世音菩薩。開山は古月で、建久年間(一一九〇―九九)多久太郎宗直の創建といわれる。


延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]上河内村上小倉

西組にある。浄土宗、金谷山安養院延寿寺と称し、本尊は阿弥陀如来。天授六年(一三八〇)の開創を伝える(縁起)。開山は長沼五郎の後裔、純蓮社良哲、名越善導流義を伝え、檀所一品寺であった。第一世より今日まで三五世、寺内に歴代住職の墓碑が林立し、ほかに五輪塔・宝篋印塔などが多くみられる。


延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]彦根市稲里町

永明山と号し、臨済宗永源寺派。本尊聖観音。文明一六年(一四八四)の延寿寺内静林寺修造勧進帳(下郷共済会文庫蔵)や寛文九年(一六六九)住持拙心の記した縁起(寺蔵)によると、行基が建立したという四十九院の一つで、もとは天台宗であった。中世には退転、荒廃していたが、文明一六年勧進により静林せいりん寺が復興された。しかし天正年間(一五七三―九二)の兵火で再び灰燼に帰し、江戸時代に入って永源円光の弟子拙心が入山禅宗に改めて再興したという。


延寿寺
えんじゆじ

[現在地名]熊本市川尻町 横町

よこ町の東部、加勢かせ川の近くにある。無動山と号し天台宗、本尊は不動明王。建久八年(一一九七)河尻三郎実明が祈願所として建立、開山は快智法印と伝える(国誌)。寺の半鐘には正和年中(一三一二―一七)河尻武実が建立したとする銘がある。河尻氏が滅亡すると寺領は没収され、本尊を本堂に安置するだけとなった。文政年間(一八一八―三〇)加勢川がつけかえられ、天保二年(一八三一)五月二九日の大洪水によって裏塘が決壊し、堂塔はじめ寺床立木に至るまで水没し大被害を受けた(熊本藩年表稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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