デジタル大辞泉
「東照宮」の意味・読み・例文・類語
とうしょう‐ぐう〔トウセウ‐〕【東照宮】
徳川家康を祭る神社。初めは東照社と称された。家康は初め久能山に葬られたが、日光に社殿が営まれ東照大権現として奉斎。正保2年(1645)宮号を授けられると、全国の社も東照宮と改称した。
栃木県日光市にある神社。祭神は徳川家康を主神とし、源頼朝・豊臣秀吉を配祀。元和3年(1617)に駿河の久能山より家康の霊を遷して祭ったのに始まる。本殿・拝殿・唐門・陽明門などは国宝。平成11年(1999)「日光の社寺」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
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とうしょう‐ぐうトウセウ‥【東照宮】
- [ 一 ] 栃木県日光市山内にある神社。旧別格官幣社。徳川家康のほかに豊臣秀吉、源頼朝をまつる。元和三年(一六一七)創立。元和二年に死去した徳川家康は駿河国(静岡県)の久能山に葬られたが、翌年東照大権現の神号をおくられ、ここに改葬された。本殿・拝殿・唐門・陽明門など八棟の建物および太刀二振は国宝。日光東照宮。
- [ 二 ] =くのうざんとうしょうぐう(久能山東照宮)
- [ 三 ] 北海道函館市宝来町にある神社。旧県社。徳川家康をまつる。蝦夷(えぞ)三官寺の一つ、日高様似の等澍院に勧請(かんじょう)していた東照大権現を、元治元年(一八六四)五稜郭東北の地に遷座。明治一一年(一八七八)現在地に移す。
- [ 四 ] 茨城県水戸市宮町にある神社。旧県社。徳川家康・頼房をまつる。元和七年(一六二一)徳川頼房が創建。水戸東照宮。権現さん。
- [ 五 ] 群馬県前橋市大手町にある神社。旧県社。徳川家康ほかをまつる。寛永年間(一六二四‐四四)藩祖松平直基が越前国(福井県)勝山城主のときに創祀。以後転封ごとに遷祀、現在地には明治四年(一八七一)遷宮。前橋東照宮。
- [ 六 ] 名古屋市中区丸の内にある神社。旧県社。徳川家康・義直・慶勝をまつる。元和五年(一六一九)徳川義直が城内三の丸に創建。明治八年(一八七五)現在地に遷宮。
- [ 七 ] 和歌山市和歌浦にある神社。旧県社。徳川家康・頼宣をまつる。元和七年(一六二一)徳川頼宣の創立。初名東照大権現、正保二年(一六四五)現名に改称。俗に「紀州の日光」と称される。
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東照宮
とうしようぐう
[現在地名]中区丸の内二丁目
元和五年(一六一九)徳川義直が名古屋城内三の丸天王社の西地を卜して社殿を造営し、同年家康の神像を奉安し、付家老成瀬正成・竹腰正信を奉行として神衣・甲冑・弓箭・太刀を納め、南光坊天海を導師、日増院珍祐を別当とした。旧県社。大工は沢田若狭守吉次であった。祭神は中央に徳川家康、左に日吉大神、右に日光権現を祀った。「金城温古録」の東照宮部をみると、
<資料は省略されています>
とある。社殿は本殿のほか渡殿・拝殿・唐門・透塀・楼門などで権現造を構成し、内外の装飾すこぶる豊麗である。「尾張名所図会」に三の丸御宮の図として、東照宮の社殿が描かれている。元禄元年(一六八八)光友が重修し、その後もしばしば重修したが、その主要社殿は創建当時のまま明治に及んだ。
明治維新の際社領(義直の寄進一千石あり)は廃された。明治八年(一八七五)義直を合祀、名古屋鎮台が設置されると、同九年もとの明倫堂跡の現在地に遷宮を行った。同三〇年さらに一四代藩主慶勝を相殿に合祀した。境内地一千四九五坪であった(明治神社誌料)。昭和一〇年(一九三五)国宝に指定されたが、戦災によって焼失。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]和歌山市和歌浦中三丁目
権現山の山腹に位置し、隣には天満神社がある。徳川家康と徳川頼宣を祀り、豪華な社殿であることにより、俗に紀州の日光と称される。旧県社。元和五年(一六一九)紀伊に入国した徳川頼宣は、東照宮造営の地を求め、和歌浦雑賀山に定めた。起工は同六年七月に始まり、和歌山藩付家老安藤直次をはじめ彦坂光正・竹林坊賢盛を奉行とし、頼宣自身指揮をしたという。翌七年一一月に完成し、天海僧正を導師とし、勅使中御門資胤・広橋兼賢を迎え、二四日に正遷宮、二五日に祭事が営まれた。この鎮座には関東や比叡山の衆徒約三七〇名が下向、三日間にわたって法華千部が読誦された(南紀徳川史)。寛永一三年(一六三六)一月一七日には、和歌山藩より社領として海部郡小松原村・小南村・黒田村・梅田村(現和歌山県下津町)のうちから一千一石七斗余が寄進されている。もとは東照大権現・日吉山王権現・麻多羅神の三神を祭祀しており、正保二年(一六四五)東照大権現の宮号の宣下により、東照宮と改められた。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]仙台市東照宮一丁目
宮町の北、台原の段丘上に鎮座する。徳川家康を祭神とする旧県社。当地一帯は玉手崎・玉田崎とよばれる仙台七崎の一つで、天神社を祀っていたが、二代藩主忠宗は三代将軍徳川家光により東照宮の勧請が許可されると、天神社を当地の東に移し、跡地に東照宮を造営した。造営奉行富塚円蔵助重信・山口内記・大山三太右衛門・大工梅村彦作らがその任に当たり、慶安二年(一六四九)には柱立、承応三年(一六五四)の完成(義山公治家記録)という大事業であった。延数で大工二万九千九六七人・人夫五八万三千六七九人、費用二万二千四五六両を要した。本殿・唐門・瑞籬・拝殿・本地堂(現存しない)・御供所・随身門(楼門)・神橋・神厩・石華表などが備わっていた。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]弘前市笹森町
笹森町の東側にあり、参詣道の入口は町内南の東長町との境付近。祭神は東照大権現。旧県社。
元和三年(一六一七)二代藩主津軽信枚が城内の天守の傍らに、東照宮を勧請して小祠を建てた(津軽一統志)。寛永元年(一六二四)城の東北方向に遷座し、法印本祐を開山として二〇〇石を給して別当職とし、六ヵ所の寺院を建て社僧とした(津軽歴代記類)。「津軽一統志」に別当は岩鬼山叡平寺薬王院で寺領二〇〇石、社僧の千寿院・成就院・寿福院・教王院・延命院・観行院に各一五石の寺領を与え、このほか神職として桃井和泉守・山辺丹後守に各一五石の社領を給した。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]行田市本丸
文政六年(一八二三)忍藩主となった松平(奥平)忠尭の勧請で、同八年城内下荒井に社殿が落成した。祭神は東照権現。現在は旧本丸跡に鎮座する。松平下総守家の祖松平忠明は、三河国長篠城(現愛知県鳳来町)の城主であった奥平信昌と徳川家康の長女亀姫との間に生れた四男で、家康の養子となり松平姓を名乗った。慶長二〇年(一六一五)の大坂夏の陣後大坂城主になったが、家康が没するとその翌元和三年(一六一七)、摂津西成郡天満川崎(現大阪市北区)の織田有楽斎宅跡に東照宮を勧請した。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]水戸市宮町二丁目
水戸市街中央の水戸駅西側の高台にある。祭神は徳川家康・徳川頼房。旧県社。
元和七年(一六二一)初代藩主徳川頼房が徳川家康を祀り社殿を創建、昭和一一年(一九三六)徳川頼房が配祀された。この場所は「水府地名考」に「古くは弥富山円通寺禅宗居住常陸大掾の牌所なりとそ(中略)其後文明年中の比江戸但馬守忠通城主の時牌所となり天正末年迄此所に在りしに佐竹氏当城へ移られし時円通寺を追放し其跡へ天徳寺を太田より移され慶長七年羽州へ迂封に仍て天徳寺も彼国へ移せしかとも寺地は旧に依て天徳寺と称し看司の僧居りしを元和年中常葉村今祇園寺の所へ移され程なくこの地の上へ東照宮を勧請あり」とみえる。
東照宮
とうしようぐう
[現在地名]東区二葉の里二丁目
二葉山(向陽山)の南麓に鎮座。祭神は東照大権現。旧村社。広島藩主で徳川家康の外孫でもあった浅野光晟が、岡山藩主池田光政の岡山での東照宮建立に刺激されて正保三年(一六四六)に造宮に着工、翌四年に完成、慶安元年(一六四八)には神体を迎えて遷宮式を行った。社領は三〇〇石(済美録)。祭礼は毎年九月一六日、一七日の両日に行われたが、家康没後五〇年にあたる寛文六年(一六六六)の祭礼はことに盛大を極め、城下西部の広瀬御旅所(現中区の広瀬神社)への神輿渡御は光晟も参加して行われたという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東照宮 (とうしょうぐう)
徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)家康が駿府で没すると,遺言に基づきいったん駿河久能山に葬り,翌年下野日光山に遷葬,朝廷から東照大権現の神号が授けられた(日光東照宮)。久能山東照社は17年12月社殿を造替,幕府は神領3000石を寄進した。家康死去の年に外孫松平忠明が大坂天満の川崎に,外様大名有馬豊氏が筑後善導寺に,東照社をまつった。秀忠は18年江戸城紅葉山に内廟として東照社を勧請し,藤堂高虎は府内士庶参詣の便に上野忍ヶ岡に小祠を建て勧請したが,寛永寺創建にともない幕府は27年(寛永4)これを造替した(上野東照宮)。三家では,尾張の徳川義直が19年名古屋城三の丸に,紀伊の徳川頼宣が21年和歌浦雑賀山(さいかやま)に,水戸の徳川頼房も同年水戸霊松山(常磐山)に東照社を創建し,社領を寄進した。各地へも勧請されたが,創建年代の早いものは元和年中に川越仙波,弘前,会津など30社,寛永年中に前橋,高田,京都金地院(こんちいん),福井,佐渡相川,大津坂本日吉大社内,金沢,上野世良田など37社を数える。45年(正保2)の宮号宣下により東照社はすべて東照宮と称した。遠隔のものでは蝦夷地鎮護のため日高国様似(さまに)に寛政年間(1789-1801)勧請され,のち函館に移された。東照宮は諸大名が自国内に勧請したもの,遷葬の途次霊柩休泊の地に勧請したもののほか,神社の相殿(あいどの)・境内社や寺院内奉斎を含め500社に及び,江戸開城後の静岡藩成立にともない,移住幕臣が奉斎したものもあって,静岡ついで東京,群馬,神奈川など徳川氏縁由の地に多い。しかし幕府倒壊と神仏分離により衰微し,廃絶・合祀されたものが多い。
執筆者:大野 瑞男
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東照宮
とうしょうぐう
東照大権現の神号を得た徳川家康をまつる神社。全国各地に所在し,そのうち栃木県日光市の日光東照宮が特に有名で,元別格官幣社。元和2 (1616) 年に没した家康の遺体はいったん駿河国の久能山に葬られたが,遺言により元和3 (1617) 年下野国日光山に改葬された。その後,寛永 11 (1634) ~13年に将軍徳川家光が社殿の大々的な改築を行ない,現在の日光東照宮ができた。すべて漆塗りで極彩色が施され,当代の建築装飾が集約されている。社殿の形式は権現造の典型的なもので,最もよく知られている陽明門をはじめ5件8棟が国宝に指定されている。 1999年には近隣の二荒山神社,輪王寺とともに世界遺産の文化遺産に登録。なお東照宮は初め東照社と称し,正保2 (1645) 年東照宮号を朝廷から授けられた。
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東照宮
とうしょうぐう
徳川家康を祀(まつ)る神社。徳川家康は1616年(元和2)駿府(すんぷ)城(静岡市)で亡くなり、久能(くのう)山に葬られたが、翌年遺言のとおり、日光に社殿を建て神として奉斎、後水尾(ごみずのお)天皇より東照大権現(だいごんげん)の称号が奉られ、正一位を贈られた。1645年(正保2)その社が東照宮と称されたが、それとともに全国の城下町などに勧請(かんじょう)して祀られた社も、東照宮と称された例が多く、約百数十社が存する。
[鎌田純一]
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東照宮
とうしょうぐう
徳川家康を祭る神社
1616年家康が死ぬと,幕府は駿河の久能山に葬り社殿を建築。翌年朝廷より「東照大権現」の神号を与えられ,将軍家の祖神となった。同年僧天海の主張で日光に改葬し,社殿を造営。'36年3代将軍家光のとき,江戸初期の建築美術を集約して現在の社殿を造営。諸大名も東照宮を城下に建立し,幕府に対する忠誠を表した。建築上では権現造が有名。
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の東照宮の言及
【江戸時代美術】より
…だが,そうした障壁画や欄間の透し彫には,桃山美術の持つ潑剌とした感覚が薄れ,代わって格式張った荘重な雰囲気が強調されている。同様な性格は,日光東照宮の過剰なまでの彩色や装飾彫刻についても指摘できよう。これらに桃山美術の発展の最後の段階が見られる。…
【日光東照宮】より
…これより以前,日光山領は豊臣秀吉により門前,屋敷,足尾村以外を没収されたが,秀忠は20年日光山領に1400石を加増,東照社領5000石を寄進した。日光山に家光の大猷院(だいゆういん)廟が建立されると,52年(承応1)堂領3630石余が寄進され,55年(明暦1)東照宮領は1万石とされた。この本高1万3630石余に93年(元禄6)の検地打出高,1700年の足知(たしち)が加わり2万5000石余となったが,92年(寛政4)新御領上知により2万0900石余となった。…
【別格官幣社】より
…74年,楠木正成をまつる神戸の湊川(みなとがわ)神社が創建されると,祭神が皇族でも天神地祇でもなかったので,国家のために特に功労のあった人臣をまつる神社を別格官幣社に列する制度を75年に設け,祭祀は官幣小社に準ずることとした。同年,豊臣秀吉をまつる京都の豊国(とよくに)神社と,徳川家康をまつる日光の東照宮が別格官幣社となり,その後,年を追って増加し,1945年までに28社に達した。28社を祭神別に見ると,南北朝時代の忠臣新田義貞,北畠親房,名和長年らをまつる神社が10社,幕末維新期の主要人物と近世の藩政に功績のあった大名をまつる神社8社,戦国時代の大名をまつる7社,藤原鎌足,和気清麻呂・広虫,藤原秀郷をまつる3社となっており,それら28社の創建の中に,国家神道下の神社政策と,それを支えた歴史観を見ることができる。…
【紅葉山】より
…古墳という推測もあるが,江戸城構築後,1618年(元和4)に徳川家康の廟所を設置して以来,歴代将軍の廟が設けられ,御霊屋(おたまや)という。家康廟はのちに東照宮といい,毎年4月17日の忌日には将軍の参詣があり,紅葉山御社参ととなえ幕府年中行事の一つであった。祭事のための楽人が付属し,紅葉山楽人といい,霊廟には紅葉山坊主が雑事に当たった。…
※「東照宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」