松井友閑(読み)まついゆうかん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松井友閑」の意味・わかりやすい解説

松井友閑
まついゆうかん

生没年不詳。安土(あづち)桃山時代の武将。もと尾張清須(おわりきよす)(愛知県清須(きよす)市)の町人織田信長仕え、和泉堺(いずみさかい)(大阪府堺市)の政所(まんどころ)。如閑斎、徳斎と号した。1574年(天正2)信長が東大寺正倉院名香蘭奢待(らんじゃたい)を截(き)ったとき臨検。翌年に宮内卿(くないきょう)法印。二位法印。77年8月大和(やまと)信貴山(しぎさん)城の松永久秀(ひさひで)に、翌年11月摂津在岡(ありおか)城(兵庫県伊丹(いたみ)市)の荒木村重(むらしげ)に対して、ともに翻意を促した。80年4月本願寺派のこもる大坂城を接収。織田政権の政策の立案に参画。のち豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、堺の政所となり、86年免職。信長の茶道を勤めたこともある。

奥野高広

『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』

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朝日日本歴史人物事典 「松井友閑」の解説

松井友閑

生年:生没年不詳
安土桃山時代の武将。出自は不詳だが,清須の町人だったのを織田信長が抜擢して家臣に加えたといわれている。側近として仕え,特に寺社や諸大名との折衝に役割を果たし,天正2(1574)年,信長による東大寺正倉院の蘭奢待切り取りの奉行,翌年の三好康長の投降取次や本願寺との和睦斡旋などの働きがみられる。また同5年の松永久秀の謀反,6年の荒木村重の謀反など,いずれも友閑が慰撫に当たっている。『信長公記』には,天正5年あたりから宮内卿法印の名で出てくる。天正8年,本願寺との講和交渉においても信長方の代表として顕如方との交渉に当たっており,接収に具体的に動いている。天正10年の本能寺の変後,豊臣秀吉に仕え,京および摂津周辺にある寺社関係の支配に当たった。天正14年6月14日,秀吉によって堺政所を罷免されたことが『多聞院日記』に記されているのを最後に,その後の消息がわからなくなる。

(小和田哲男)

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改訂新版 世界大百科事典 「松井友閑」の意味・わかりやすい解説

松井友閑 (まついゆうかん)

戦国~安土桃山時代の武将。生没年不詳。宮内卿法印。織田信長の右筆。1570年(元亀1)堺政所となり信長政権の都市支配の一翼を担う。同年,信長が京・堺の茶器を集め,74年(天正2)正倉院の蘭奢待を拝受したときにはそれぞれ奉行をつとめ,80年石山本願寺開城には目付となるなど,終始信長側近として活躍。信長亡きあとも秀吉に従ったが,86年堺政所の職を罷免された。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松井友閑」の解説

松井友閑 まつい-ゆうかん

?-? 戦国-織豊時代の武将。
もと尾張(おわり)清洲(きよす)の町人といわれる。織田信長に右筆としてつかえ,堺(さかい)政所(まんどころ)(代官)となる。宮内卿法印と称する。天正(てんしょう)2年(1574)東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの奉行,8年石山本願寺開城の目付をつとめた。また信長の名物茶器収集につくす。のち豊臣秀吉にしたがったが,14年堺政所を罷免された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松井友閑」の意味・わかりやすい解説

松井友閑
まついゆうかん

安土桃山時代の武士。織田信長側近の吏僚として活躍し,右筆,堺の代官を歴任。のち宮内卿法印に任じられた。正倉院の名香「蘭奢待 (らんじゃたい) 」を信長が拝受するときの奉行をつとめ,天正8 (1580) 年には本願寺石山城開城の目付として活躍。

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