松平康英
まつだいらやすひで
(?―1808)
江戸後期の旗本。別名は康秀・康平、図書頭(ずしょのかみ)と称した。1807年(文化4)正月長崎奉行(ぶぎょう)に就任。翌8年8月、ナポレオン戦争の影響によって、イギリス軍艦フェートン号がオランダ船拿捕(だほ)のため長崎に侵入し不法行為を行った。康英が薪水(しんすい)食糧を補給したためフェートン号は退去したが、18日、康英は国辱と責任を痛感し遺書を残して自殺した。長崎御番役の当番年にあたっていた佐賀藩は、幕府から警固の不備を追及され、藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)は逼塞(ひっそく)を命じられた。いわゆる「フェートン号事件」がこれで、鎖国日本に衝撃を与える外圧となった。佐賀藩では、この事件を契機に防備拡充・軍備増強が急務となり、幕末藩政改革の導火線となった。
[藤野 保]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
松平康英 (まつだいらやすひで)
生没年:1760-1808(宝暦10-文化5)
江戸中期の長崎奉行。前田清長の次男。のち松平康彊の養子となる。初め栄之助,伊織,図書頭。1794年(寛政6)西丸徒頭,96年西丸目付,1800年目付,02年(享和2)船手頭兼任,07年(文化4)長崎奉行へと進み,長崎に赴く。08年イギリスのフェートン号(フェートン号事件)が長崎に入って乱暴したさい,これを阻止できなかった責任をとって,同船が長崎を退去した8月17日の夜に切腹した。
執筆者:藤田 覚
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
松平康英
没年:文化5.8.17(1808.10.6)
生年:明和5(1768)
江戸後期の長崎奉行。通称伊織,図書頭。旗本2000石。中奥御番,西ノ丸徒頭,西ノ丸目付,目付,船手頭兼帯を経て,文化4(1807)年長崎奉行となる。ロシア船対策の警備を定めるなど,対外防備を固めた矢先,翌年8月15日英国艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入,オランダ人を捕縛する事件が起きたが,佐賀藩の警備不備により撃退ができず,食料など給与の要求を受け入れ,人質を解放させて,17日退去させた。その夜康英は責を負って切腹自殺した。のちに佐賀藩主鍋島斉直へは100日間逼塞の咎があった。なお別人で同姓同名の松平(松井)康英は幕末の棚倉藩主である。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
松平康英(2) まつだいら-やすひで
1830-1904 幕末-明治時代の大名。
文政13年5月26日生まれ。松井康済の長男。松平康泰(やすひろ)の養子。外国奉行兼神奈川奉行となり,文久元年開港延期の交渉副使としてヨーロッパにわたる。元治(げんじ)元年陸奥(むつ)棚倉藩(福島県)藩主松平(松井)家4代となる。寺社奉行をへて,慶応元年老中にすすむ。2年転封(てんぽう)となり,武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主。8万400石。4年松井姓に復した。明治37年7月5日死去。75歳。初名は康直(やすなお)。周防守(すおうのかみ)。
松平康英(1) まつだいら-やすひで
1768-1808 江戸時代後期の武士。
明和5年生まれ。幕臣。文化4年長崎奉行に就任。翌年イギリス艦フェートン号が長崎に侵入,オランダ人を人質にとって薪水・食糧を要求するという事件がおき,やむなく要求をいれた康英は,同艦が退去した文化5年8月17日責任をとり切腹。41歳。防備当番の佐賀藩も幕府から警衛不備をとがめられた。別名に康秀,康平。通称は伊織,図書頭(ずしょのかみ)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
松平康英
まつだいらやすひで
1768~1808.8.17
江戸後期の幕臣。父は前田清長。松平康彊(やすかた)の養子。目付・船手頭兼帯などをへて,1807年(文化4)長崎奉行となり,ロシア船の警備対策を定めるなど,対外防備を固めた。翌年8月15日,当時オランダと敵対していた英艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎に侵入した際,オランダ人を捕縛したが,佐賀藩の警備不備により撃退できず,食料などの支給の要求を受け入れ,8月17日退去させた。その夜,責を負って切腹自殺。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
松平康英
まつだいらやすひで
[生]?
[没]文化5(1808).8.18. 長崎
江戸時代中期の長崎奉行。文化4 (1807) 年成瀬因幡守のあとをうけて第 81代長崎奉行。同5年イギリス軍艦『フェートン』号の長崎入港事件に遭遇。オランダ商館長 H.ドゥフの助言で事なきをえたが,責任を痛感して自刃。 (→フェートン号事件 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
松平康英
まつだいらやすひで
1768〜1808
江戸後期の長崎奉行
1807年長崎奉行に就任。翌 '08年,イギリスの軍艦フェートン号の長崎港乱入・暴行に対し,防備不十分で強硬策をとり得ず,いたずらに暴行を許した責任をとり,イギリス艦退去後,ただちに切腹自殺した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の松平康英の言及
【川越藩】より
…66年(慶応2)[武州一揆]を武力鎮圧し農兵取立てを計画したが,前橋還城の命を受けた。翌年老中松平康英が陸奥国棚倉より8万0442石で入封。大政奉還・戊辰戦争に遭遇し,老中を辞し恭順の意を表したが,近江領2万石は新政府に没収された。…
【長崎奉行】より
…例えば,寛永鎖国令の定着を図った馬場利重,糸割符廃止の黒川正直,市法貿易法制定の牛込重忝(しげのり),定高制・唐人屋敷設定の川口定恒らはいずれも在任10年以上の熟達者で,正徳新例の立役者大岡清相も6年間立案施行にあたり現職中に病没した。幕末には《清俗紀聞》〈長崎覚書〉などの著者中川忠英,シーボルトに鳴滝塾など出島外での活動を許した高橋重賢,フェートン号事件の責を負って自害した松平康英などが有名であるが,収賄事件関係者も少なくない。鎖国直後と幕末には下僚として与力・同心,または出付出役が置かれたが,おおむね家老・用人以下の家臣(給人)が手足となって,町年寄以下の町役人を支配した。…
※「松平康英」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」