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松本楓湖 まつもと ふうこ

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美術人名辞典の解説

松本楓湖

日本画家。茨城県生。名は敬忠、楓湖は号、別号に安雅堂。画法を初め沖一峨、のち佐竹永海、さらに菊池容斎に学び、歴史画の大家となる。門生を自由に指導して今村紫紅高橋広湖速水御舟小茂田青樹らを育てた。帝国美術院会員。大正12年(1923)歿、84才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

松本楓湖 まつもと-ふうこ

1840-1923 明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)11年9月4日生まれ。沖一峨(いちが),佐竹永海,菊池容斎にまなび,歴史画や挿絵をかいた。日本美術院創設にくわわり,文展審査員,帝国美術院会員となる。安雅堂画塾をひらき,今村紫紅,速水御舟(はやみ-ぎょしゅう)らをそだてた。大正12年6月22日死去。84歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。本名は敬忠。別号に洋峨,永峨。代表作に「蒙古(もうこ)襲来・碧蹄(へきてい)館」「静女舞」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

松本楓湖

没年:大正12.6.22(1923)
生年:天保11.9.4(1840.9.29)
明治大正期の日本画家。常陸国(茨城県)小野村生まれ。幼名藤四郎のち敬忠。嘉永6(1853)年江戸に出て,初め沖一峨,のち佐竹永海に学ぶ。明治1(1868)年菊池容斎の『前賢故実』をみて容斎に入門し,歴史人物画を学ぶ。一時輸出陶器下絵を描き,また雑誌や新聞に多くの挿絵を制作。自ら『日本歴史画報』の編集主任も務めた。日本画会,日本美術院,巽画会などに関係したが,その門下から今村紫紅,速水御舟ら再興日本美術院を担う重要作家が多く輩出したことは,特筆に値する。大正8(1919)年帝国美術院会員となる。

(佐藤道信)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

松本楓湖
まつもとふうこ
(1840―1923)

明治・大正の日本画家。常陸(ひたち)国河内郡寺内(てらうち)村(茨城県稲敷(いなしき)市)に生まれる。本名敬忠(たかただ)。江戸琳派(りんぱ)の沖一峨(おきいちが)、文晁(ぶんちょう)派の佐竹永海(さたけえいかい)に学び、のち菊池容斎(ようさい)に師事する。初め『幼学綱要(ようがくこうよう)』『婦女鑑(ふじょかがみ)』ほか読本(よみほん)・雑誌類の挿絵を数多く手がけ、明治期挿絵界に大きな影響を与えた。1895年(明治28)第4回内国勧業博覧会に『蒙古襲来(もうこしゅうらい)・碧蹄館(へきていかん)』を出品。1898年岡倉天心(てんしん)らの日本美術院創立に際しては正員としてこれに参加した。翌年の第7回絵画共進会には天心、橋本雅邦(がほう)らとともに審査員となり、また1907年(明治40)開設の文展でも審査員を歴任した。同年東京勧業博覧会に『名和長年奉帝図(なわながとしほうていず)』、1909年第3回文展に『小楠公於四条畷奮戦(しょうなんこうしじょうなわてにふんせんす)』を出品するなど歴史画をよくし、1919年(大正8)帝国美術院会員となる。その安雅堂画塾(あんがどうがじゅく)からは今村紫紅(いまむらしこう)、速水御舟(はやみぎょしゅう)ら多くの俊才が輩出した。[二階堂充]

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