日本画家。東京浅草茅町の質屋蒔田良三郎の次男として生まれる。本名栄一。14歳のとき同じ町内の松本楓湖の安雅堂画塾に入門,はじめ禾湖,のちに浩然と号したが,1914年母方の速水家をついでから御舟と改号。禾湖時代から巽画会,紅児会にやまと絵風あるいは琳派風の作品を発表。《萌芽》によって原三渓らにその才能を認められ,15年日本美術院が再興されると,兄弟子今村紫紅を指導者とする赤曜会の新鋭として再興院展に参加。紫紅の〈南画は印象派よりも印象的〉という新南画の理論を実践し,明るい色彩,大胆な構図,新鮮なモティーフの《近村》を発表,ついで17年京都に取材した《洛外六題》(1923焼失)は横山大観,下村観山らに激賞され,23歳で院展同人に推された。翌年,京都修学院林丘寺内雲母(きらら)庵に移り,第5回院展に《洛北修学院村》を発表。このころより御舟自身〈群青中毒にかかった〉と述べているように群青系の色調の作品が多くなる。翌19年3月浅草駒形において市電にひかれ左足切断の災禍にあうが屈することなく,ますます制作にうちこんでゆく。京都に帰ってデューラーへの関心を示し,近代日本画中最も厳密にして濃厚な写実を試みた《京の舞妓》を第7回院展に出品。近代人の自覚の上に立った自己の主張を鋭敏に展開,新画風を探ってはこわし,こわしては組みたて,ヨーロッパにおける当時のフォービスム,キュビスム,またシュルレアリスムの動向とその理論をつぎつぎに注目しつつ,中国の院体画を学び,宗達や琳派の装飾的構成をたくみに摂取しながら新画境の創造に徹した。25年の《炎舞》と30年の《名樹散椿》はそれぞれ表現は異なるが,彼の生命の燃焼を示す作品といえよう。34年《白日夢》を院試作展に発表するかたわら,墨絵に傾倒し,新たな展開を試みるべく裸体描写に取り組み《婦女群像》の制作にかかるが果たさず,翌年3月腸チフスのため急逝した。
執筆者:佐々木 直比古
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大正・昭和期の日本画家
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日本画家。蒔田(まきた)良三郎(質商)の二男として東京浅草に生まれる。本名栄一。のち母方の速水姓を名のる。1908年(明治41)松本楓湖(ふうこ)に入門、10年に巽(たつみ)画会に初めて出品する。翌年今村紫紅(しこう)、安田靫彦(ゆきひこ)らの紅児会に加わり、ことに同門の先輩紫紅の感化を受けて画才を伸ばした。14年(大正3)の日本美術院再興には院友として参加、17年の第4回院展で『洛外(らくがい)六題』が認められて同人に推された。19年に交通事故で左足首を切断するが、不幸にめげず精進し、翌年の院展に細密描写の大作『京の舞妓(まいこ)』を出品している。写実の追究はさらに続き、中国院体画にも注目して主観性を強め、25年の『樹木』『炎舞』にみられる象徴味をたたえる画風を開いた。その後、細密描写を離れ、琳派(りんぱ)にも関心を向け、伝統的な装飾美と西洋近代術の融和を図って苦心を重ねた。『翠苔緑芝(すいたいりょくし)』(1928)、『名樹散椿(めいじゅさんちん)』などがその成果である。30年ローマ日本美術展覧会に美術使節としてイタリアに渡り、ヨーロッパ各地を巡って帰国した。帰国後は表現の単純化を目ざし、『女二題』『花の傍』『青丘婦女抄』『サーカスの少女』などを制作している。チフスのため40歳で急逝。
[原田 実]
『河北倫明他編『速水御舟――作品と素描』全二巻(1981・光村図書出版)』▽『『現代日本の美術14 速水御舟』(1977・集英社)』▽『吉田幸三郎編『速水御舟』(1975・便利堂)』
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