江戸初期の譜代大名。京都所司代。三河国額田郡に生まれ,幼年出家し香誉宗哲と称したが,父と兄が戦死したため1581年(天正9)還俗し家を継いだ。86年,徳川家康が駿府に居を移したとき,駿府町奉行となり,90年家康の関東転封に際しては,駿府での業績を買われ江戸町奉行となり,関東代官を兼ねた。ついで1601年(慶長6)京都所司代となり,03年に家康が征夷大将軍に就任すると同時に,従五位下伊賀守に叙任された。大坂の陣までは,畿内における対豊臣氏政策の中心として重要な役割を果たすとともに,09年宮中での密通事件裁許に際し,朝廷への幕権拡大に努めた。また,以心崇伝とともに公家・寺社統制にあたった。09年山城・近江において9860石を加増され,1万6600石の大名となった。20年(元和6)所司代の職を辞し,24年京都堀川の邸に没した。
→板倉政要
執筆者:藤井 譲治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(山本博文)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
江戸幕府の初代京都所司代。伊賀守(いがのかみ)。三河(みかわ)、山城(やましろ)、近江(おうみ)のうち1万6000余石を領す。三河国(愛知県)額田(ぬかだ)郡小美(おみ)村に好重(よししげ)の二男として生まれる。幼くして出家し、香誉宗哲(こうよそうてつ)と号して中島村の永安寺に住したが、父および兄弟が相次いで戦死したため、徳川家康の命により還俗(げんぞく)して板倉家を継いだ。甚平のち四郎左衛門と通称する。家康に重用され、駿府(すんぷ)町奉行(ぶぎょう)や、関東移封後は江戸の町奉行などを歴任。関ヶ原の戦い以降は京都関係の政務を担当、1603年(慶長8)の江戸開幕に伴い名実ともに所司代となって政治的手腕を発揮した。対朝廷対策や畿内(きない)近国の民政にも細部にわたって関与したが、反徳川勢力の制圧や西国大名の統制など軍事的性格の強い施策が基調であった。
[鎌田道隆]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1545~1624.4.29
江戸初期の京都所司代。父は好重。伊賀守。三河国生れ。出家していたが,還俗して徳川家康に仕えた。1586年(天正14)駿府町奉行となり,家康の関東入国後は関東代官・町奉行を兼ね,1601年(慶長6)京都奉行,ついで所司代。09年近江国で加増され,1万6000石余を領した。元和初年まで山城国奉行も兼ね,朝廷や豊臣氏・西国大名の動静監視のほか,山城一国の支配も行うなど,初期幕政に大きな役割をはたした。京都支配の掟書「板倉氏新式目」を制定したと伝えられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代初頭,京都所司代板倉勝重が制定したと伝えられる京都支配の掟書。《板倉父子公事裁許定書》《板賀州掟覚書》ともいう。…
…1600年(慶長5),関ヶ原の戦後の京都支配は事実上徳川氏の手に握られることになり,残敵一掃と京都の治安維持のために奥平信昌が所司代となった。しかしその支配はわずか半年で終わり,そのあとは加藤正次と前田玄以のもとで京都支配にあたっていた松田政行に受け継がれ,ついで01年8月からの板倉勝重と松田政行とによる体制を経て,家康が将軍宣下を受けた03年2月以降板倉勝重による単独支配が始まり,ここに江戸幕府の京都所司代が確定する。そして二条城の北に所司代屋敷が設けられた。…
…各章〈昔,京の町〉云々という書出しで始まり,洛中洛外に起こった事件を奉行が解決し,判決を下す説話で,推理小説でもある。奉行名は明示していないが,京都所司代板倉勝重・重宗の父子が想定できる。また,2人の裁判話として世に伝えられているものを含む。…
※「板倉勝重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新