敗戦後、全国の都市の焼け跡などに自然発生的に形成された自由市場。
主食の米をはじめ、衣料、生活用具などの生活必需品のほとんどを配給統制のもとに置いた戦時経済体制は、敗戦後急速にその機能を麻痺(まひ)させていった。大本営発表に象徴される偽りの情報と暴力的支配によって、国民を戦争に動員してきた国家の権威は地に落ち、その統制力は極端に弱まった。多くの企業が敗戦とともに生産を停止あるいは縮小したため、すでに戦争中から絶対的品不足に陥っていた消費財の供給は、ほとんどゼロのレベルにまで落ち込んだ。また本土決戦に備えて備蓄されていた軍需物資の多くが横領され、隠退蔵された。
これらに加え、1945年(昭和20)産米が1910年(明治43)以来の大凶作であったことが、食糧事情の悪化に拍車をかけた。主食の配給は43年(昭和18)以降、馬鈴薯(ばれいしょ)、雑穀、甘藷(かんしょ)、大豆粕(かす)などを米と差し引きで配給する総合配給制となっていたが、それでも敗戦までは大人1人2.3合(330グラム。45年7月からは2.1合。1合で、ご飯茶碗(ぢゃわん)2杯分の見当)のレベルが維持されていた。しかしその主食の配給も滞るようになり、敗戦後の45年11月に政府は、事態を放置するならば46年の端境期(はざかいき)には1000万人の餓死者が出るとの予測を発表。この予測を裏づけるように、46年に入ると主食の遅配が常態化するようになった。46年7月の東京都の発表によれば、この月末の平均遅配日数は21.7日となっている。国家が国民のぎりぎりの生存すら保障できないという未曽有(みぞう)の事態が現出したのである。このような食糧難、生活難にさらされた国民の生存をかろうじて支えたのが、家庭菜園であり、野草であり、買出しであり、闇市であった。
闇市の歴史は、ターミナル駅の広場などで庶民が生活用品を融通しあう物々交換から始まったが、たちまち露店が軒を接するまでに発展した。『朝日新聞』は、敗戦後わずか1か月後の東京・有楽町のようすを、「試みに有楽町駅前に立つてみる、防空壕(ごう)を埋めたてた猫額大の広場は蝟集(いしゅう)する人群れの足で灰のやうな埃(ほこり)を立てる闇市場と化してゐる」と伝えている。
東京の場合、1945年11月末の警視庁の調査によれば、露天商は3000に上ると推定され、翌年4~5月に立教大学の学生が行った実態調査では、新橋、上野、新宿の3か所だけで2118店を数えている。また、新宿の闇市についての調査結果では、バラック建ての店舗を構えているものは、448店のうちわずかに32店にすぎず、よしず張りあるいは戸板を並べただけのもの、さらにはじかに地面に商品を並べただけといったものが圧倒的である。
公定価格による物資流通の場ではあらゆる物が不足していたときに、敗戦の混乱のなかで横領され横流しされた軍需物資や、近郊農村から買出しによって持ち込まれた食料、米軍のPX(駐屯地売店)からの横流し品、吸い殻をほぐして巻き戻したたばこ、衣類、雑貨、書籍、医薬品などなど、闇市ではなんでも売っていた。大阪ではたき火の当たり代1時間5円也(なり)の「ぬくもりや」と称する珍商売まで登場している。
闇市を支配していたのは、公定価格ではなく自由価格、いわゆる闇値である。敗戦後爆発的に進行したインフレーションのなかで、闇値はうなぎ登りに上昇した。公定価格との格差は開くばかりであった。1945年10月の調査によれば、公定価格ならば1升53銭の白米が70円、1貫目3円75銭の砂糖が1000円、1個10銭の握り飯が8円、1升8円の2級酒が350円というありさまである。
それでも人々は、必要な物や金を手に入れるために、丼(どんぶり)1杯の雑炊で空腹をいやすために、そして屋台のかすとり酒で1日の憂さを晴らすために闇市に集まった。闇市では物さえあれば金を手に入れることができ、金さえあれば物を手に入れることができた。闇市では売り手が同時に買い手であり、買い手がそのまま売り手に転ずるといったことがしばしばおこった。
闇市は、統制と権力支配から解放され、自分の足で大地を踏み締めて生活を始めた戦後の民衆の、「どっこい生きている」というたくましさを凝縮した場所でもあった。「やみいち」は、始め「闇市」と表記されていたが、1946年以降「ヤミ市」と表記されるようになった。国民の生存を保障する機能を失った公的な流通機構にかわって、「ヤミ市」が庶民の生活のなかにどっしりとした位置を占め、闇の存在から公然たる存在に変身していった事情が反映しているのであろう。政府は繰り返し闇市に統制・規制を加えようとしたが、闇市はそのつど形を変えながら戦後の混乱期を生き延びた。しかし1948~49年ごろ日本の経済がようやく復興の兆しをみせ始めるにしたがい、しだいにその姿を盛り場から消していった。
[佐瀬昭二郎]
『猪野健治編『東京闇市興亡史』(1978・草風社)』▽『松平誠著『ヤミ市 東京池袋』(1985・ドメス出版)』
第2次大戦後も存続していた戦時経済統制を無視して,生活必需品を売ったり,簡単な飲食をさせた露店の集団。戦争中に統制違反の売買をすることをやみ取引といった。それが公然と行われたのでやみ市の名称が生じたのである。1945年の秋,復員兵や空襲で焼けて店や工場が再開しない失業工員や小商店主が,農村や漁村から食糧を買い出してきたり,鋳物などでなべ,かまなどの生活必需物資を作って,駅前の焼け跡などで地上に商品を置いて売ったのがやみ市のはじまりであった。台所用品からイカとイワシの丸焼き,ふかし芋,吸殻を使って再生巻きタバコを作るタバコ巻き器まで欲しいものは一応そろった。また東京以外のやみ市では米飯も大福餅も砂糖も売っていた。占領軍の兵隊はPX(アメリカ軍の酒保)からタバコやチョコレートを持ってきてこづかい稼ぎにやみ市で売った。やみ市には,商品をはこぶ担ぎ屋,パンパンガール,浮浪者,浮浪児,リンタク,男娼などが群がり,敗戦直後の風俗が展開した。そのうち一部のやみ市は新興やくざが管理するようになり,それ以外のやみ市はてきやの支配下にはいった。ときにはMPの手入れなどもあったが,警察は見て見ぬふりをしていた。東京では新橋,有楽町,上野,新宿の駅前のやみ市は規模が大きかった。やみ市は全国の主要都市にあったが,メチルアルコール入りの焼酎で失明者,死者がでて問題になった1946年末ころから,商品を売る台が作られ,やみ市は露天商の集団といえるようになった。49年ころからはやみ市の場所に戦時中の商店が復活しだしたので,やみ市はしだいに消滅した。しかしやみ市の商人と地主などの間に紛争もあり,大阪駅前などでは長期にわたる裁判がつづいた。やみ市の商人のうちには団結して資金を集めたり,地方自治体へ働きかけて本格的な店舗を作る者もあった。東京新橋の駅ビルや,上野のアメ屋横丁(通称アメ横)のビルなどがその一例である。
執筆者:加太 こうじ
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…1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。…
※「闇市」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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