柳川一蝶斎(読み)ヤナガワ イッチョウサイ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「柳川一蝶斎」の解説

柳川 一蝶斎(3代目)
ヤナガワ イッチョウサイ


職業
手品師

本名
青木 治三郎

別名
初名=柳川 蝶之助,前名=柳川 蝶柳斎

生年月日
弘化4年 11月

出生地
江戸・神田平永町(東京都 千代田区)

経歴
文久2年16歳の時、初代一蝶斎の弟子となり、柳川蝶之助と称した。慶応2年13代目松井源水、太神楽の増鏡磯吉らと渡欧。パリ万国博覧会をめざして各国を巡業し日本固有の手品を披露した。明治2年帰国。15年頃柳派に加入して柳川蝶柳斎と改名。25年天覧奇術を披露。29年3代目一蝶斎を襲名。「獅子の曲」「独楽の曲」など日本式手品をよくし、その最後の人といわれる。

没年月日
明治42年 2月17日 (1909年)

伝記
手妻のはなし―失われた日本の奇術 藤山 新太郎 著(発行元 新潮社 ’09発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「柳川一蝶斎」の意味・わかりやすい解説

柳川一蝶斎 (やながわいっちょうさい)

日本手品師。(1)初代 生没年不詳。初代養老滝五郎の門弟で,初名は柳川蝶之助。江戸で活躍し,〈うかれの蝶の曲〉でよく知られる。1837年(天保8)に将軍の上覧を仰ぎ,のち柳川豊後大掾(ぶんごのだいじよう)藤原清高を受領した。(2)2代 生没年不詳。東京駒込の植木屋に生まれる。初代の門弟。1880年ごろに2代を継ぎ,寄席で名を上げた。(3)3代(1847-1909・弘化4-明治42) 本名青木治三郎。東京神田の生れ。16歳で初代に入門し,蝶之助を名乗る。1866年(慶応2)に海外巡業,のち79年,春風蝶柳斎と改名した。蝶や獅子の手品に優れ,92年に天覧,96年に3代を継いだ。純粋の日本式手品の最後の芸人といわれる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「柳川一蝶斎」の解説

柳川一蝶斎(3代)

没年:明治42.2.17(1909)
生年:弘化4.11(1847)
明治期の手品師。江戸神田の御用金物屋の子。本名青木治三郎。文久2(1862)年,16歳で初代一蝶斎に入門。2,3年して蝶之助の名を貰い,本人談によると慶応2(1866)年太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出て明治2(1869)年帰国したという。15年ごろ柳派へ加入して柳川蝶柳斎の名で寄席へ出演。同25年鍋島直大邸で天覧の栄に浴し,29年3代目一蝶斎を襲名した。獅子の曲,独楽の曲など日本手品をよくし,とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であったという。<参考文献>「芸人出世譚・柳川一蝶斎」(『文芸倶楽部』1906年2月号)

(山本進)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳川一蝶斎」の解説

柳川一蝶斎(3代) やながわ-いっちょうさい

1847-1909 幕末-明治時代の手品師。
弘化(こうか)4年11月生まれ。初代柳川一蝶斎に入門。慶応2年13代松井源水らとヨーロッパ興行に参加し,パリ万国博公演に出演。紙切れを扇であおいで蝶にみたてる芸など,日本式手品の名人といわれ,明治29年3代をついだ。明治42年2月17日死去。63歳。江戸出身。本名は青木治三郎。初名は蝶之助。前名は春風(はるかぜ)蝶柳斎。

柳川一蝶斎(2代) やながわ-いっちょうさい

?-? 江戸後期-明治時代の手品師。
初代柳川一蝶斎の子。初名は大治郎。前名は文蝶。弘化(こうか)4年(1847)父の豊後大掾(ぶんごのだいじょう)受領(ずりょう)と同時に一蝶斎の名をゆずられた。初代の門人柳川蝶十郎が2代をついだとする説もある。

柳川一蝶斎(初代) やながわ-いっちょうさい

?-? 江戸時代後期の手品師。
江戸で活躍し,「うかれ蝶の曲(浮かれの蝶)」を創作する。弘化(こうか)4年(1847)豊後大掾(ぶんごのだいじょう)を受領(ずりょう)した。初名は蝶之助。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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