柴原村(読み)しばはらむら

日本歴史地名大系 「柴原村」の解説

柴原村
しばはらむら

[現在地名]豊中市柴原町一―五丁目・千里園せんりえん二―三丁目・待兼山まちかねやま

内田うちだ村の西に位置する。桜井さくらい谷六ヵ村の一で、天保郷帳に「桜井谷柴原村」とある。野畑のばたけ少路しようじ・内田の三村千里せんり川筋に展開したのに対し、当村は千里川から西へ離れ、能勢のせ街道(池田道)との中間に集落がある(現柴原町四―五丁目)。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳に「芝原村」、元禄郷帳には「古ハ芝原柴原村」とあるので、芝原から柴原に変化したとみられる。中世垂水西たるみのにし牧桜井郷に属した。永享元年(一四二九)八月日の春日社神供料所摂州桜井郷本新田畠帳(今西家文書)には、地名肩書としては出てこないが、最大の耕作関係者(三町三反余)として「芝原方」が出てくる。芝原氏は桜井郷内の有力な地侍で奈良興福寺の代官を務めているので(豊中市史)、その本貫地として芝原が認められる。


柴原村
しばはらむら

[現在地名]三春町柴原

込木くぐりき村の西部大滝根おおたきね川の北岸にあり、村内中央を蛇沢へびさわ川が横断する。永禄四年(一五六一)六月二三日の熊野山新宮年貢帳(仙道田村荘史)の「なめ津」や、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)の「南面津」を村内滑津なめづ地区にあてる説がある(三春町史)。なめ津は紀州熊野新宮の式田三段歩をもち、年貢三〇〇文を納めていた。


柴原村
しばはらむら

[現在地名]わき小川町柴原おがわまちしばはら

夏井なつい川中流の山中にあり、南は上平うわだいら村、東は上岡かみおか村、西は福岡ふくおか村。磐城郡に属した。磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)に「小川柴原村 高小川中之村之内」とあり、高八一二石余。元禄郷帳では柴原村は高三一三石余、五平久保ごへいくぼ新田は高一二三石余。天保郷帳では「古者 柴原村・五平窪村弐ケ村」と注記され、高四五一石余。延享四年の村明細帳(内藤家文書)によれば本田高三〇三石余・反別二九町一反余、新高一三七石余・反別一四町六反余、家数六〇(本百姓四五・水呑一五)、人数二七九、馬三八。


柴原村
しばはらむら

[現在地名]成東町柴原

早船はやふね村の北東に位置し、銚子に至る道が通る。芝原とも記す。文禄二年(一五九三)滝川一益が下総芝原など二〇〇石を与えられているが(寛政重修諸家譜)、これは当地のことか。同三年の上総国村高帳に村名がみえ、高一五九石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では早舟組に属し、旗本中根・川口領。元禄郷帳では高一八〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では旗本丸毛・飯田・川口の三給、家数一四。以後領主は幕末まで同じ(旧高旧領取調帳)


柴原村
しばらむら

[現在地名]勝山町柴原

旭川の北岸の河岸段丘上に位置する。正吉まさよし村の東にあたり、東は旭川を隔てて大庭おおば山久世やまくせ村。大山往来の枝道が通り、当村より北は谷沿いの道となる。正保郷帳に村名がみえ、田高五二石余・畑高四四石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では村位は下、改出高三一石余・開高一五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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