桐山村(読み)きりやまむら

日本歴史地名大系 「桐山村」の解説

桐山村
きりやまむら

[現在地名]幸田町桐山

三河山脈にとり囲まれ、さん山を水源とする小石こいし川が流れ出る東方のみが耕地上六栗かみむつぐり村と接し、谷底平野集落がある。なだらかな丘陵地で西・南・北が囲まれ、西は鼓沢つつみざわ山で宮迫みやばさま(現幡豆郡吉良町)、南は立岩たていし山で逆川さかさがわ村、北はむかい山で須美すみ村・野場のば村と接する。村域内を平坂へいさか道が貫く。「霧山」「切山」「吉良庄桐山」と記されることもある。「豊坂村誌」は「三河国総国風土記」の蘇美すみ郷の記事より須美すみを親村として長和四年(一〇一五)に京より下向した桐山石七郎により開発されたと伝える。

永禄六年(一五六三)の三河一向一揆まで吉良東条きらとうじよう(現幡豆郡吉良町)城主吉良義昭の支配にあった。一揆鎮圧後は深溝ふこうず城主松平伊忠の領地になり、一揆中に野場にこもった敵将夏目吉信を生捕りにするきっかけになった乙部八郎兵衛を切山に住まわせた。「家忠日記」の天正六年(一五七八)五月二六日条に「岡崎信康切山へ楊梅見物ニ被越候」とあり、翌七年一二月七日条に「たかのへいて候、切山おとへ(乙部)はいたかくれ候」と記す。


桐山村
きりやまむら

[現在地名]丹生川村桐山

大萱おおがや村の西にあり、大萱谷おおがやだに川が集落の中央を西流し、小八賀こはちが川が南方をほぼ西流する。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳では「霧山」とみえ、下坊しもぼ村・瓜田うりだ村とともに高付される。高三四八石余、うち田二五〇石余・畑九〇石余、物成高一三一石余。同一八年郷帳では「きり村」として一二七石余。元禄検地反歩帳の高七五石余、田九町余・畑五町三反余。「飛騨国中案内」によれば免は六割一分五厘、家数二二(すべて百姓)


桐山村
きりやまむら

[現在地名]山添村大字桐山

布目ぬのめ川の曲流地域、北野きたの村の西に位置する。「大和志」には「切山属邑一」とある。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)には「切山 五町反米一石五斗 号六方衆御免令抑留之」とある。当村戸隠とがくし神社湯釜の永正一一年(一五一四)の銘には「切山庄」とあり、当村域の徳竜とくりゆう廃寺の応永三一年(一四二四)開板大般若経の天和三年―貞享元年(一六八三―八四)の修理銘には「桐山村徳竜寺」と記す。


桐山村
きりやまむら

[現在地名]松代町桐山

山間の柏崎街道沿いに位置し、南西清水しみず村。伝承によれば小山寺崎桑原の三氏がさわおよびあさ平あさだいら(現中魚沼郡川西町)から集まり村を形成したという。正保国絵図では高九石余。天和三年郷帳では高一二石四斗余、反別二町余・青苧畑二反余。安永九年(一七八〇)新田検地では高四二石三斗余。明治五年(一八七二)の戸数四五。天明三年(一七八三)夫食米拝借願(小野島正守氏蔵)に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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