桜沢村(読み)さくらざわむら

日本歴史地名大系 「桜沢村」の解説

桜沢村
さくらざわむら

[現在地名]寄居町桜沢

末野すえの村の東に位置し、南は寄居村と荒川。西部は山地で、北西端に鐘撞堂かねつきどう(三三〇・二メートル)がある。村の南部を秩父往還が東西に通る。猪俣党に属した桜沢宗氏・南飯塚盛氏・山崎国氏(「岡部系図」大阪府岡部和子氏蔵)は当村およびその字を名字の地とした人物と推定されている。字堀の内ほりのうちは桜沢氏の館跡と考えられており、付近には中世の五輪塔や宝篋印塔もある。戦国末期は北条氏邦の支配下にあり、天正一八年(一五九〇)豊臣軍の鉢形はちがた攻めに際し、「鉢形にては桜沢八幡の前に砦をかまえ」て防戦の準備をしたというが(北武蔵名跡志)、これも堀の内かその付近と考えられている。同年の徳川家康関東入国後は武川衆の旗本米倉五郎兵衛忠継の知行となるが、慶長三年(一五九八)四月に米倉分の「桜沢之郷」六一五石余が収公され、替地として御正みしよう本郷(現江南町)が武川衆に与えられている(「伊奈忠次知行書立」田中家文書)


桜沢村
さくらさわむら

[現在地名]中野市大字桜沢

北・東より南にわたり山地で、大熊おおくま中山なかやま(現上高井郡高山たかやま村)雁田かりた村(現上高井郡小布施おぶせ町)に境し、西方延徳平えんとくだいらの低平な広い耕地が開け、真引しんぴき川で大熊村に接し、また六川ろくがわ村とも境する山懐集落である。

桜沢はつつみ郷とともにもとはら郷に属し、交代して諏訪社上社の頭役を勤めてきたが、寛正四年(一四六三)には桜沢入道禅沢が堤郷分を兼ね単独で五月会を勤めるに至ったことを初見とする(諏訪御符礼之古書)


桜沢村
さくらざわむら

[現在地名]深浦町柳田やなぎだ

北は日本海に面し、道路が海岸沿いにほぼ東西に発達し、東は牛島うしじま(現鰺ヶ沢町)、西は柳田やなぎた村の支村江沢えざわがある。

貞享四年(一六八七)検地帳に、柳田村の支村とあり、田畑屋敷合せて三町五反七畝一九歩、村高二四・五五六石、うち田方二町七反六畝一一歩で二一・四〇一石、上田から下々田まで設定され、下田が一町八反二歩、一二・六〇五石とあり、畑方八反一畝八歩で三・一五五石、上畑がなく中・下・下々畑で下畑が五反五畝歩、一・六五石とある。そのほかに柳田村と合せて開発可能な田畑地があり、漆木の栽培、製塩も行われていた。この時に桜沢地子さくらざわじし新田が桜沢に改名したともいう(津軽平野開拓史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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