中国の京劇俳優。日本でもメイ・ランファンと呼ばれることが多い。祖父の代から女方を専門とする梨園に育った。父の夭折のため貧窮生活のなかで芸に励み,古典技芸の基礎を固めた。16歳ころから絶妙の喉と容姿が備わって注目され,1913年には上海の舞台にたったが,歌中心の女方で失敗した。これを機に表情,動作,舞,立回り,化粧,衣装を研究し,ついに古装劇なる様式を生みだし大成功を収めた。17年,色芸ともに最高の女方となって来日し大歓迎をうけ,また歌舞伎からも学び,24年の再来日の後,意を強くして,30年には渡米公演。博士号を授与されチャップリンなどとも交わった。35年には訪ソしてスタニスラフスキーなどに迎えられた。日本の侵略で32年に上海へ,38-42年は香港に砲火を避けた。解放後は戯劇協会副主席などの要職を務め,56年にも来日し,かつて関東大震災の被災者にしたと同様に被爆者のために慈善公演をした。天賦の才と努力で,伝統の技巧の上に近代的な様式と内容を加え,京劇の女方を発展させた。
執筆者:吉川 良和
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京劇俳優。女方。北京(ペキン)生まれ。祖父梅巧玲(ばいこうれい)、父梅竹芬(ばいちくふん)、息子梅葆玖(ばいほうきゅう)も女方。娘梅葆玥(ばいほうぼう)、孫范梅強(はんばいきょう)も京劇俳優。梨園(りえん)の名門に生まれ幼少から舞台に立ち、天賦の美声美貌(びぼう)と不断の修練で名声は海外でも高かった。1930年アメリカ公演、35年モスクワ公演、日本へは1919年(大正8)以後数度来演。これらの公演でスタニスラフスキー、チャップリンらとの交流があった。抗日戦中はひげを伸ばし上演拒否、46年舞台に戻った。彼は従来の青衣(せいい)(貞女の役)と花旦(かたん)(はでな女性の役)の区別を取り払い、戯曲の主題を明確にし役柄の形象をつくるため改編改良を加え、優美な舞踊動作を創案した。また観客や時代の要望にも配慮し、純愛、愛国心、女性の尊厳や戦(いくさ)の悲劇にひしげる女性たちを幅広く、絢爛(けんらん)、優美、毅然(きぜん)、典雅に表現した。おもな上演劇目は『黛玉葬花(たいぎょくそうか)』『覇王別姫(はおうべっき)』『宇宙鋒(うちゅうほう)』『貴妃酔酒(きひすいしゅ)』など。59年共産党に入党、中国京劇院院長などを歴任した。著作には『舞台生活四十年』などがある。61年8月8日没。北京西郊の万花山に葬られている。
[中野淳子]
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1894~1961
中国京劇の名優,女形。北京の生まれ。幼くして舞台に立ち,生涯その名声をうたわれたほか,京劇の改革に貢献した。日中戦争中は日本軍の占領地で舞台に立つことを拒絶した。中華人民共和国では演劇界の要職を兼ねた。
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…時,利あらず,騅(すい)逝かず……虞や虞や,若(なんじ)を奈何(いかん)せん〉と唱えれば,虞姫は剣を抜いて舞をまったのち自決する。この虞美人の悲劇は,京劇中,梅蘭芳(ばいらんほう)の当り狂言として有名である。【岡 晴夫】。…
※「梅蘭芳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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