森下町(読み)もりしたちよう

日本歴史地名大系 「森下町」の解説

森下町
もりしたちよう

[現在地名]江東区森下一―三丁目

神明宮の東にある町屋深川森下ふかがわもりした町とも称した。北と東は五間ごけん堀を限り、西は六間堀ろつけんぼり町・深川神明宮・深川元ふかがわもと町、南は同元町・肥前唐津藩小笠原家下屋敷・遠江掛川藩太田家下屋敷・三間さんげん町。町の起立は深川元町に同じ。寛文(一六六一―七三)頃家作が認められたが以前は人家もまばらで、明暦―万治(一六五五―六一)頃には町に隣接する酒井左衛門尉下屋敷(のち唐津藩下屋敷)の木立が生茂る様から森下の名が付けられた。西葛西にしかさい領の内で、検地は在方・町方とも元禄八年(一六九五)に行われ高五三石余・反別四町四反余。


森下町
もりもとまち

[現在地名]金沢市東山ひがしやま一―三丁目・森山もりやま一丁目

卯辰うたつ町の北東に続く北陸街道の両側町で本町。森本町とも記した(金沢古蹟志)。北東の金屋かなや町との間に木戸があった(文化八年金沢町絵図名帳)。通りの長さ約一八〇間(延宝町絵図)。東は四丁一番しちよういちばん町、西は馬場ばば一番丁。森下村の亀田大隅の末裔与助がこの地に住み、染工となって屋号を亀甲屋と称し、旧地の地名をとって町名にしたという(亀の尾の記)。亀田大隅は幼名を小三郎、別名を岳信といい、一向一揆の旗頭の一人で、天正八年(一五八〇)の金沢御堂陥落後も加賀国でただ一人柴田勝家に従わなかったという。


森下町
もりしたちよう

[現在地名]岡山市森下町

旭川の東、山陽道の城下への出入口の町。山陽道沿いに発達した両側町で、東・南・北ともに国富くにとみ村、西は古京ふるぎよう町。元来国富村地であったが、宇喜多秀家が山陽道を付替えたときに同村枝村森下の民家が町家になったという(吉備温故秘録)。寛永城下絵図には当地域は描かれないので不明。慶安城下絵図では森下町。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は一町四反七畝余で、うち御免地の番屋敷一三歩半を除き徳米一一石五斗余・口米二斗余。近世初期の区分では外町(市政提要)。中期以降は中組の外町(岡山市史)。山陽道への口であるので町の外れに惣門があり、その脇に番屋敷もあった。


森下町
もりしたちよう

東山区本町通五条上ル二丁目

伏見街道筋(本町通)に位置。正徳二年(一七一二)の開発によってできた六町の一。町名は「始め耕地にして、字を森下と称せしと云ふ」(坊目誌)と伝える。

「坊目誌」に「元金屋町と一町にして、下垣町とも云へり。後に分離す」とあるのは、正しくない。開町直後の正徳四年洛外町続町数小名家数改帳(荻野家文書)に家数はわずか一軒ながら「森下町」の名が金屋町とは別に明記されている。また下垣町しもかきまちと称するのは、貞享三年(一六八六)京大絵図などによれば大黒町だいこくまち通の南半分であって、また宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に森下町・金屋町をあげて「右の二町を俗に垣町と云」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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