森槐南(読み)モリカイナン

精選版 日本国語大辞典 「森槐南」の意味・読み・例文・類語

もり‐かいなん【森槐南】

  1. 漢詩人。愛知県名古屋の人。本名公泰。字(あざな)は大来。春濤の子。詩、音韻に通じた。帝室制度取調局秘書官、式部官、帝国大学文科大学講師などを歴任。著「古詩平仄論(ひょうそくろん)」「浩蕩詩程」「作詩法講話」など。文久三~明治四四年(一八六三‐一九一一

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20世紀日本人名事典 「森槐南」の解説

森 槐南
モリ カイナン

明治期の漢詩人



生年
文久3年11月16日(1863年)

没年
明治44(1911)年3月7日

出生地
尾張国名古屋(愛知県名古屋市)

本名
森 公泰(モリ キミヤス)

別名
字=大来,通称=泰二郎,別号=秋波禅侶

学位〔年〕
文学博士〔明治44年〕

経歴
父・森春濤に詩学を、金嘉穂、鷲津毅堂、三島中洲らに漢学を学んで、明詩風の詩をつくった。明治14年太政官出仕し、以後枢密院属、帝室制度取調局秘書、図書寮編集官、宮内大臣秘書官、式部官などを歴任。伊藤博文の信頼厚く、42年博文がハルビンで暗殺された時も随行しており銃創を受けた。晩年には東京帝大文科大学講師を兼任。詩人としては明治詩壇の第一人者として活躍し、23年星社を設立、盟主となり、32年「新詩綜」を創刊。37年随鷗吟社をおこし、「随鷗集」を刊行した。明治末期の漢詩壇の中心的存在となり、国分青厓、本田種竹と共に三大家と称された。主著に「槐南集」「浩蕩詩程」「作詩法講話」「唐詩選評釈」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「森槐南」の意味・わかりやすい解説

森槐南 (もりかいなん)
生没年:1863-1911(文久3-明治44)

漢詩人。名古屋の生れ。森春濤(しゆんとう)の末子。名は公泰,字は大来,通称泰二郎,号は槐南。14歳のとき父に従って上京し,鷲津毅堂,三島中洲らに就いて漢学を修めた。1881年太政官に出仕し,以後,図書寮編集官,式部官等を歴任,晩年には東京帝大文科大学講師を兼ねた。博識で能吏の風があり,終始伊藤博文の後援をうけた。大沼枕山,春濤なきあとの詩壇再興に尽くし,90年に結成された詩社星社の盟主に推された。94年星社解散後は雑誌《新詩綜》《随鷗集》を刊行。詩は呉梅村・王漁洋の蒼涼神韻の趣と,陳碧城・郭頻伽らの艶体とを兼備し,父春濤とともに明治における清詩極盛時代を築いた。おもな著書に《槐南集》《作詩法講話》などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森槐南」の意味・わかりやすい解説

森槐南
もりかいなん

[生]文久3(1863).11.16. 尾張,名古屋
[没]1911.3.7. 東京
漢詩人。本名,公泰。漢詩人森春濤の子。『補春天伝奇』 (1880) の発表の翌年太政官に出仕,図書,宮内の職を経て東京大学文科講師になった。『新詩綜』を創刊 (99) ,随鴎吟社を起す (1904) など,漢詩の発展に寄与した。主著『古詩平仄論』 (1883) ,『唐詩選評釈』 (92) ,『槐南集』 (1912) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「森槐南」の解説

森槐南 もり-かいなん

1863-1911 明治時代の漢詩人。
文久3年11月16日生まれ。森春濤(しゅんとう)の子。太政官につとめ宮内大臣秘書官,式部官を歴任。明治漢詩壇の中心的存在で,「新詩綜」を主宰,随鴎吟社(ずいおうぎんしゃ)をおこした。明治44年3月7日死去。49歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。名は公泰。字(あざな)は大来。通称は泰二郎。漢詩集に「槐南集」「浩蕩詩程」など。

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367日誕生日大事典 「森槐南」の解説

森 槐南 (もり かいなん)

生年月日:1863年11月16日
明治時代の漢詩人
1911年没

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世界大百科事典(旧版)内の森槐南の言及

【漢詩文】より

…漢詩ではまず小野湖山,岡本黄石,大沼枕山(ちんざん)らが現れ,陸游,蘇東坡(蘇軾(そしよく)),黄山谷(黄庭堅)らの宋詩を重んじて詩壇を指導した。ついで現れた森春濤(しゆんとう)・森槐南(かいなん)父子は婦女子の恋愛の感情を詠んだ香奩(こうれん)体の詩や,袁枚(えんばい),趙翼,張船山(張問陶),王漁洋(王士禎)らの清詩をさかんに鼓吹し,本田種竹らとともに明治詩壇(ことに後期)における清詩の流行をもたらした。槐南の門からは野口寧斎が出て詩名をうたわれたが,当時これらの人々と独立して活躍していたのが成島柳北,長三洲らである。…

【国分青厓】より

…藩学養賢堂に学んだのち上京し,1889年新聞《日本》の創刊に加わり時事を風刺する〈評林〉詩欄を担当して注目を集め,同紙廃刊後は《日本及日本人》に拠ってこの欄を続けた。90年9月,本田種竹らと森槐南を盟主とする詩社星社を復興し漢詩人としての地位を確立したが,種竹・槐南らの没後は大正・昭和にかけての漢詩壇の中心となった。《大正詩文》《斯文》に寄稿したほか《昭和詩文》を主宰し,1937年には芸術院会員に選ばれた。…

※「森槐南」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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