喜劇映画(読み)きげきえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜劇映画」の意味・わかりやすい解説

喜劇映画
きげきえいが

映画の発明者リュミエール兄弟(兄オーギュスト、弟ルイ)のシネマトグラフ(映画撮影機と映写機を兼ねたものでスクリーンに映写する方式の映画)の一篇(ぺん)、ギャグに彩られた『水をかけられた水撒(みずまき)人』(1895)が証(あかし)ともなっているように、このジャンルは映画の発生とともに古い。しかしシネマトグラフがシネマ(映画)となり、映画が興行として発展するとともに、ことに喜劇映画では俳優(コメディアン)の比重が大きくなり、主役が同時に監督でもある場合が多くなって、この傾向は第二次世界大戦のころまで、このジャンルの特徴となったといってよい。

 以後、喜劇映画は流れとして、スラプスティック・コメディとシチュエイション・コメディの2系列に大別できるが、前者はことにコメディアン主体で、追いかけなどドタバタの激しい動きと道化ぶりが笑いを誘い、後者は脚本や演出に重きが置かれ、比較して動きが少なく、状況のちぐはぐさ、不条理がおかしさを生み出すのを身上としている。

[渡辺 淳]

外国

喜劇映画の発展

本格的な喜劇映画は、まず20世紀初頭、舞台の喜劇役者出身のフランス人マックス・ランデールの軽妙なボードビル風のスラプスティック・コメディに始まった。ついでランデールの系譜は、彼の名マックスを芸名としたといわれるアメリカ人マック・セネットに引き継がれ、セネットが創設(1912)したキーストン撮影所が生み出したスラプスティック・コメディは、第一次世界大戦中まで、そのスピーディーな運びが受けて一世を風靡(ふうび)した。

 しかし、第一次世界大戦直前の1914年に、このキーストン撮影所から今度はチャップリンがデビューし、あの独特な浮浪者スタイルのドタバタで人気をとり、『黄金狂時代』(1925)あたりから、そこへ人生のペーソス(哀感)とヒューマンな味わいを盛り込み、ドラマチックな、いわゆる劇映画をつくって気を吐いた。そしてチャップリンは1930年代に入って、トーキー時代になっても生き延び、第二次世界大戦後まで喜劇王の名をほしいままにした。

 けれども、1920年代にチャップリンと並んでスラプスティック・コメディの黄金時代を築いたバスター・キートンと、「ロイド眼鏡」のハロルド・ロイドは、トーキー時代の到来とともに消え行く運命を余儀なくされた。だがキートンは、あの無表情な顔と対照的な激しいアクロバティックな動きで、サイレントだからこそ可能だったシュルレアリスティックで不条理な世界の表現に成功し、次にふれるマルクス兄弟とともに、1960年代以降再評価されたことに注目したい。マルクス兄弟(長男チコ、次男ハーポ、三男グルーチョ、五男ゼッポの4人、四男のガンモは戦争に召集されたため少年時代の短期間のみ活動)は1930年代~1940年代のアメリカにあって、当時の不況と戦争の予感を反映しつつ、『我輩(わがはい)はカモである』(1933)など、数々のアナーキーなナンセンス(ないしシュルレアリスム)・コメディでファンを得ていた。

 他方、シチュエイション・コメディに関しては、まずアメリカで1923年にドイツから移ったエルンスト・ルビッチ監督が、『結婚哲学』(1924)など、都会風で機知に富んだソフィスティケイテッド・コメディで人気を得たことが特筆される。なお、この流れは、同じくドイツからアメリカに渡ったビリー・ワイルダーによって、第二次世界大戦後、継承発展させられ、『アパートの鍵(かぎ)貸します』(1960)など、艶笑(えんしょう)味に富んだ人情喜劇の名作があれこれと生み出された。さらにこの系譜は1970年代以降、ニール・サイモンの喜劇の映画化へとつながったとみられよう。

 それから1930年代には、セネット門下の監督フランク・キャプラが脚本家のロバート・リスキンRobert Riskin(1897―1955)と組んでつくった『プラチナ・ブロンド』(1931)をはじめ、『或(あ)る夜の出来事』(1934)、『オペラ・ハット』(1936)など、一連のスクリューボール・コメディ(変人喜劇)が見落とせない。キャプラの仕事は第二次世界大戦後まで続いたが、その楽天的で理想主義的作風は確かに時代遅れとなり、キャプラ的趣向は、ニュアンスを違えて1940年代にはプレストンスタージェス監督に、第二次世界大戦後には後にふれるウディ・アレン(脚本・監督・主演)に引き継がれたとみなせよう。

 また1930年代には、フランスにおいてルネ・クレール監督が、ウジェーヌ・ラビッシュEugène Labiche(1815―1888)のボードビル(歌入り喜劇)の映画化『イタリア麦の帽子』(1927)や、『ル・ミリオン』『自由を我等(われら)に』(ともに1931)などを発表、ランデールの線上で、スラプスティックな要素を保ちながら、独特な詩的タッチの社会風刺喜劇を発表して全世界に影響を与えたことが忘れられない。コメディアンでは、歌手出身のフェルナンデルやミシェル・シモンMichel Simon(1895―1975)、それにミュージック・ホールの花形、モーリス・シュバリエの活躍が際だった。

[渡辺 淳]

第二次世界大戦以降

第二次世界大戦を挟んだ1940年代~1950年代にかけては、イギリスで、アレクサンダー・マッケンドリックAlexander Mackendrick(1912―1993)監督がブラック・コメディの先駆的傑作といわれる『マダムと泥棒』(1955)などで活躍し、そこで主演した俳優、アレック・ギネスらとともにシチュエイション・コメディの分野で気を吐いたことと、アメリカでは、豊富なタレントの競演によってミュージカル・コメディがますます盛んにつくられるようになったことを特記しなければなるまい。

 それに、このころには、ローレル‐ハーディや、先述のマルクス兄弟の場合をはじめとして、何人ものコメディアンが組んで出演するトーキー以後の傾向にいよいよ拍車がかけられたことと、いろいろとシリーズものが盛んになったことに注意を促したい。いずれもアメリカ産だが、ボブ・ホープの「珍道中」シリーズや「腰抜け」シリーズ、バッド・アボットBud Abbott(1897―1974)とルー・コステロLou Costello(1906―1959)の凸凹(でこぼこ)コンビ、歌手ディーン・マーチンとボードビリアンのジェリー・ルイスJerry Lewis(1926―2017)の「底抜け」シリーズなどがそれである。フランスでは、ジャック・タチ(脚本・監督・主演)が『ぼくの伯父さん』(1958)など一連の「バカンス物」を発表、ユーモアいっぱい、ソフトなコミック・タッチで世相を皮肉ったのが評判をよんだ。

 1960年代以降には、舞台と歩調をあわせるように、スクリーンでも喜劇は、一方でシリアスでブラックなユーモアの色合いを強める反面、パロディー風のドタバタ調復活の兆しが散見するようになる。アメリカでは、スタンダップ・コメディ(日本でいえば漫談)出身の、先にもふれたウディ・アレンや、もとボードビリアンのメル・ブルックスMel Brooks(1926― )といった監督らにそれがうかがえる。俳優では、ともに今は亡きジャック・レモンJack Lemmon(1925―2001)とウォルター・マッソーWalter Matthau(1920―2000)(ことにB・ワイルダー監督の1974年作品『フロント・ページ』における両人のコンビは絶妙だった)、ダドリー・ムーアDudley Moore(1935―2002)、「ピンク・パンサー」シリーズのピーター・セラーズPeter Sellers(1925―1980)、エディ・マーフィEddie Murphy(1961― )らコメディアンの仕事ぶりにもそれはうかがえよう。イギリスでは「モンティ・パイソン」シリーズのイアン・マクノートンIan McNaughton(1925―2002)、フランスではコメディアンのルイ・ド・フュネスLouis de Funès(1914―1983)、イタリアでは監督のディノ・リージDino Risi(1916―2008)やエットレ・スコーラEttore Scola(1931―2016)らの名があげられる。

[渡辺 淳]

日本

日本についてみると、第二次世界大戦前では、サイレント時代から引き続き、ナンセンス・コメディの斎藤寅次郎や山本嘉次郎(かじろう)監督、榎本(えのもと)健一、古川緑波(ろっぱ)、エンタツ‐アチャコ・コンビ、柳家金語楼らコメディアンの活躍が目だった。

 第二次世界大戦後になると、「サラリーマン喜劇」シリーズの森繁久弥(ひさや)や、クレージーキャッツの植木等(ひとし)(1926―2007)、それに伴淳三郎(ばんじゅんざぶろう)(1908―1981)、フランキー堺(1929―1996)、三木のり平(1924―1999)らがテレビと平行して映画でもいわゆるタレントとして庶民の人気を集めた。とりわけ注目されるのは、1969年に始まり、1996年の渥美(あつみ)清の死によって幕を降ろした記録的なロングラン・シリーズ、山田洋次監督と主演渥美コンビの寅(とら)さんもの『男はつらいよ』であろう。手を変え品を変えての失恋シリーズだったが、渥美のモダン落語風語り口の巧みさで庶民の心をとらえ、松竹のドル箱だったことは確かである。この路線は、かなりトーンはダウンしているが、1980年代末から始まった栗山富夫(1941― )監督(2000年の第11作からは、1963年生まれの本木克英(もときかつひで)監督)、三國(みくに)連太郎(1923―2013)、西田敏行(1947― )主演の『釣りバカ日誌』シリーズに継承されている。そして、さらにソフィスティケートされたものとしては、周防正行(すおまさゆき)(1956― )の『Shall we ダンス?』(1995)や、劇作家の三谷幸喜(みたにこうき)(1961― )が初めて手がけた『ラヂオの時間』(1997)などが、軽い風俗的タッチでだが、このジャンルに新風を送り込んでいることをいい添えておこう。

 ところで、これは世界全体についていえることだが、現代では純粋悲劇が成り立ちにくいのと同様に、喜劇もかつてのような「お笑い」や「おふざけ」ではリアリティを失い、本当に人心を揺さぶることはできなくなっている。映画でも往年のチェーホフ的な悲・喜劇の現代版とでもいえる、手ごたえの確かで斬新な、風俗ではなくて「人生喜劇」の出現が待望されている。

 そして、この傾向は21世紀を迎えると、政治や社会情勢と科学・技術の急進展のなかで、いよいよグローバルに加速しており、このせいで今日的喜劇はますます創出しにくくなっているといっていいだろう。

 が、そのなかから新旧の、ともあれ問題作家や作品をいくつか拾い出してみよう。アメリカでは、鋭鋒(えいほう)の冴えは多少とも鈍りはしているが、やはり第一には『人生万歳』(2009)などで、円熟した生きのよさをみせているウディ・アレンがあげられよう。そして、アレンの人気がとりわけ高く、伝統的に喜劇が愛され、喜ばれている国フランスでも特出した喜劇作家・作品は見あたらない。比較して出来のいい作品を世に問うている作家では、パトリス・ルコント(『僕の大切なともだち』2006年)やコリーヌ・セローColine Serreau(1947― )(『サン・ジャックへの道』2005年)らをはじめ『モリエール 恋こそ喜劇』(2007)のローラン・ティラールLaurent Tirard(1967― )やアニエス・ジャウイAgnès Jaoui(1964― )とジャン・ピエール・バクリJean-Pierre Bacri(1951―2021)のコンビ(『みんな誰かのいとしい人』2004年)の仕事などが注目される。それに、ロシアのベテラン監督、アレクサンドル・ソクーロフが、イッセー尾形(1952― )を主役に昭和天皇をチャップリン風に描いて国際的評価を得た異色作『太陽』(2005)などがまた見落とせない。

 日本についていうと、劇作家三谷幸喜が映画でも、たとえば大当たりした『ステキな金縛り』(2011)にみられるように、熟達ぶりを示して一般に人気が高い。しかし何かそこには笑わせようという意図が目だち、仕掛けが人生の隠れた真実を、喜劇だからこそ引き出し、しのばせるような気配が薄い。不器用でもさりげなくて実は鋭い喜劇映画の作家・作品ないしはコメディアンが期待されもする所以(ゆえん)である。それにつけても、伊丹十三(いたみじゅうぞう)(『お葬式』1984年など)と森田芳光(よしみつ)(1950―2011)(『家族ゲーム』1983年など)、二つの才能の喪失が惜しまれてならない。

[渡辺 淳]

『喜劇映画研究会編・刊『サイレント・コメディ全史』(1992)』『アイランズ編『喜劇映画名作案内 ビデオで愉しむ125本』(1995・晶文社)』『スティーグ・ビョークマン編著、大森さわこ訳『ウディ・オン・アレン――全自作を語る』(1995・キネマ旬報社)』『原健太郎・長滝孝仁著『日本喜劇映画史』(1995・NTT出版)』『ヘルムート・カラゼク著、瀬川裕司訳『ビリー・ワイルダー自作・自伝』(1996・文芸春秋)』『バスター・キートン著、藤原敏史訳『バスター・キートン自伝――わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界』(1997・筑摩書房)』『ピエール・ビヤール著、清水馨・中井多津夫・樫山文男訳『ルネ・クレールの謎』(2000・ワイズ出版)』『渡辺淳著『喜劇とは何か――モリエールとチェーホフに因んで』(2011・未知谷)』

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改訂新版 世界大百科事典 「喜劇映画」の意味・わかりやすい解説

喜劇映画 (きげきえいが)
film comedy

映画の一つの起源は喜劇である。散水中の庭師のホースを,その息子が踏む。庭師が筒先をのぞくと同時に,いたずら息子が足を上げる。ぐしょぬれになった庭師は息子を追っかける。これは,映画の発明者の一人リュミエール兄弟の〈シネマトグラフ〉の1本,《水をかけられた水撒き人》(1895)と題する即興的な寸劇だが,人物の動きによる基本的なギャグが,すでにここにある。喜劇映画は,おおまかにいって,追いつ追われつのアクションで笑わせるスラプスティックslapstick(どたばた)と,こっけいな状況や,それにまつわる会話のおかしさが眼目のシチュエーション・コメディの二つの流れに分けられる。多くの場合,前者はコメディアンへの依存度の高い喜劇,後者は脚本や演出,つまり作者が主体の喜劇ともいえる。

初期の喜劇映画では,舞台のパントマイム役者の移入に始まり,前述の,庭師と息子の追っかけを徹底的に誇張したスラプスティックが全盛だった。音をもたなかった映画が,物語や会話を字幕に依存せざるを得なかったために,ひたすらアクロバット的な〈視覚ギャグsight gag〉に徹したからである。この〈しゃべれない不自由さ〉ゆえに,当時の喜劇は,きわめて映画的,すなわち映像的だったといえる。1905年に最初の作品を送り出したフランスのマックス・ランデル(1883-1925)も,パリのボードビルの舞台の出身である。彼は,寄席の道化師や軽業師によるどたばたに,洗練された軽妙なスタイルをもちこみ,製作,脚本,監督,主演を兼ね,第1次世界大戦前の大スターとなる。後述のチャップリンは,その口ひげ,よれよれのモーニング,ばねのように曲がる竹のステッキなどを,ランデルからヒントを得たといい,マック・セネット(1880-1960)は,芸名のマックをマックスからとったと語っている。アメリカでは,D.W.グリフィスの相棒だったセネットが,12年に創立されたキーストン社の製作主任となり,やがて〈キーストン喜劇〉の黄金時代を迎える。最初は2分程度の1巻物で,それを1週間に2本のペースで撮り上げていった。その名物は〈キーストン・コップス〉と呼ばれる警官隊のどたばたであり,海岸でのひと騒動に欠かせぬ〈水着美人〉であった。いずれもグループ,チームの動きが特色で,十八番の〈パイ投げ〉のように,片隅で始まったささいないざこざが,みるみる町全体に広まっていくおかしさを盛り上げるためには,動きのチームワークが不可欠であった。事態を収拾すべく登場した警官は,たちまち争いに巻きこまれ,最後はお定まりの追跡となる。サイレント喜劇の本質と醍醐味は,コマ落しによって動作を誇張され,〈物〉と化した人間の猛烈な追っかけにあった。

 セネット喜劇の最盛期は,1912-15年,すなわち第1次大戦中までだが,14年にここからチャップリンがデビューする。チャップリンは,エッサネイ,ミューチュアルと,より好条件の撮影所へ移りながら,自作自演の2巻物を撮り続け,《チャップリンの失恋》(1915)で創造した放浪者のキャラクターを生かし,どたばた喜劇の中に,ドラマ性とペーソスを盛りこむ方向へ歩み始める。当時チャップリンと人気を競ったハロルド・ロイド,バスター・キートンも,その〈個性〉においてはチャップリンにひけをとらない存在だった。ロイドの都会的な明朗さ,シャイな好青年ぶりとクライマックスで一気に噴出する行動力の鮮やかな対照,高層ビルの壁面をよじ登るそのアクロバット的な芸は,〈ロイド眼鏡〉とともに,彼のトレードマークとなった。一方,小柄なキートンの〈無表情〉と,超人的な〈ギャグ曲技〉のコンビネーションは,しばしばシュルレアリスム的でさえあったといえる。しかし,1930年代のトーキー時代に入ると,聴覚ギャグverbal gagを主体としたシチュエーション・コメディが主流となり,セリフに束縛されたロイドやキートンは,急速に影の薄い存在になった。ドラマが複雑化するにつれ,登場人物にも陰影が求められる。喜劇王としての生涯をまっとうしたチャップリンは,早くから,メロドラマ的構成の中に,スラプスティックとペーソス,大衆受けのするヒューマニズムを盛りこむ方法をとってこの変化を乗り切った。そのチャップリンでさえも,劇中でセリフをしゃべることにはきわめて慎重で,完全なトーキー作品は,10年以上たった《チャップリンの独裁者》(1940)が最初となる。いずれにしても,映像と〈動き〉が緊密に結びついていたサイレント時代が,喜劇映画の〈至福の時〉であったといえよう。

トーキー以後の,コメディアンによる喜劇は,コンビやトリオなどの〈掛合い型〉が目だつようになる。極楽コンビ,ローレル=ハーディ(スタン・ローレルとオリバー・ハーディ)は,〈間合い〉の芸が絶品で,日本での評価は低いが,サイレント末期からトーキー初期にかけて優れた短編を発表している。トーキーとともに登場した俳優たちは,しゃべくりにもマイムにも強いボードビリアンが多くなる。その筆頭は〈マルクス兄弟〉で,不況の世相を反映した,アナーキーで攻撃的なナンセンス・ギャグの数々は,公開当時はむしろ人々を当惑させたといわれるが,代表作《我輩はカモである》(1933)をはじめとするマルクス喜劇は近年見直され,その狂気じみたギャグの連続によって,若い観客の伝説的存在となっている。続く40年代の〈凸凹コンビ〉のバッド・アボット=ルウ・コステロ,50年代の〈底抜けコンビ〉のディーン・マーチン=ジェリー・ルイスは,いずれも初期に軍隊ものを作って人気を博したこと,また三枚目のほう(コステロやルイス)のイメージが幼児的であることにおいて共通している。太ったコステロは愛らしいが,寄目をして奇声を上げ,内股(うちまた)歩きをするルイスが大受けしたところに,第2次大戦後の(とくにアメリカの)観客の嗜好がうかがえる。その後さまざまなコンビが現れるが,〈芸〉のレベルは著しく低下し,彼らに匹敵するコンビは現れていない。

 ボードビル出身の個人芸的コメディアン,〈かぼちゃ大将〉ことW.C.フィールズは,1930年代の人気者だが,ありふれたとんま型とは違い,尊大で怒りっぽく,場所柄をわきまえぬ図々しさが巻き起こすトラブルが笑いを呼んだ。後の,50年代の漫画映画の主人公〈近眼のマグー〉にも通ずる〈はた迷惑〉タイプの系列といえよう。1940年代に,舞台から映画へ進出したダニー・ケイは,ノイローゼ的な都会青年役で売り出した。ロイドから曲技をさし引いたようなその個性と,各国のなまりをあしらった早口ソングの芸をもっともよく生かしたのが《虹を摑む男》(1947)である。1930年代の終りに映画デビューをしたボブ・ホープは,日本では《腰抜け》のシリーズ名を冠された単独主演の諸作品よりも,人気歌手ビング・クロスビーとのコンビによる《珍道中》シリーズで個性を発揮した。当時,〈スタンダップ・コミック〉(日本でいう漫談)の第一人者であるホープの舌先三寸の芸は,二枚目の相棒クロスビーをジョークでからかいつつも,そのクロスビーにしてやられては悔しがるというパターンの中で,もっともはつらつとした。いずれにしても,ボードビルやラジオ出身のコメディアンは,映画よりも,生のテレビに本領を見せた(例えば《ダニー・ケイ・ショー》のケイは,どの映画の彼よりも芸達者に見えた)。ボブ・ホープのギャグマンから身を立てたウッディ・アレンは,ナイトクラブやテレビの〈スタンダップ・コミック〉で人気を博し,60年代末から70年代にかけて映画へ進出した。はげの小男で,しかもユダヤ人であることをねたにする,マゾヒスティックなジョークに,セックスをからませた自作自演の笑いには,神経症的な幼児性と洗練された都会性がある。同じくユダヤ人で〈スタンダップ・コメディアン〉出身のメル・ブルックスは,アレンとは対照的に,攻撃的なあくの強さが売物で,映画的流動感には乏しいが,《ヤング・フランケンシュタイン》(1975),《新サイコ》(1978)など,有名映画の性的パロディを,しばしば主演も兼ねて作っている。

笑いの多い,軽妙なタッチのドラマを,すべてシチュエーション・コメディに含めると,かなりの広がりをもつことになる。風刺,風俗,人情喜劇などと呼ばれるものはすべて入るが,こうしたジャンルを得意とした映画監督には次のような人々がいる。フランスのルネ・クレールは,スラプスティックの要素を含む現代おとぎ話《ル・ミリオン》(1931),チャップリン的な風刺喜劇《自由を我等に》(1931),人情喜劇《巴里祭》(1932),《最後の億万長者》(1934)などの多彩な喜劇を発表している。サイレント的なパントマイム演技を,意識的に残したクレールに対して,会話劇のおもしろさを発揮したのは,アメリカのフランク・キャプラとエルンスト・ルビッチである。キャプラは,1930年代に脚本家ロバート・リスキンと組んで多くの喜劇を作った。風俗劇では《或る夜の出来事》(1934),社会風刺劇では《オペラ・ハット》(1936),《スミス都へ行く》(1939)などがあり,いずれもドラマの骨格が確かで,アメリカ的な理想主義,ヒューマニズムを,これほど笑いと感動で盛り上げることに成功した映画作家は類がないだろう。ドイツでサイレント時代から喜劇を撮り続けてきたルビッチは,1923年にアメリカへ移った。得意のジャンルは洗練された艶笑譚だが,ルビッチの後継者ビリー・ワイルダーは,艶笑味よりも,《アパートの鍵貸します》(1960)以降の,人情喜劇に本領を発揮した。プレストン・スタージェスは,日本公開は《結婚五年目》(1942),《殺人幻想曲》(1948)の2本のみだが,しんらつな喜劇作家として定評がある。戦前からの名監督は,ほとんどが喜劇を手がけていて,例えば,西部劇,活劇の監督と考えられがちなハワード・ホークスも,多くの喜劇を撮っているし,ジョン・フォードも,ホークスに共通する,豪快な〈男の哄笑〉を好んで描いた。

戦後の喜劇は〈ブラックな笑い〉をしだいに色濃くしてきたといえよう。その傾向は,代表的な作品に〈犯罪喜劇〉が多いという形で現れる。イギリスのアレクサンダー・マッケンドリック監督の《マダムと泥棒》(1955),バジル・ディアデン監督の《紳士同盟》(1960)など,フランスではジョルジュ・ロートネル監督の《スパイ対スパイ》(1962),《女王陛下のダイナマイト》(1966)などがあり,ルイ・ド・フュネスの笑劇も,代表作《大追跡》(1965。ジェラール・ウーリー監督)をはじめ,事実上わき役のフュネスの珍演が見どころの《ファントマ》シリーズなどがある。こうした風潮から超然としていたのは,サイレント的なパントマイム演技で押し通した,自作自演のジャック・タチ(《のんき大将脱線の巻》1947,《ぼくの伯父さん》1958,など)くらいで,アメリカのブレーク・エドワーズ監督,ピーター・セラーズ主演の《ピンク・パンサー》も刑事物のシリーズである。さらに映画全体の様相が一変した60年代以降は,〈死〉にまつわるブラック・ユーモア作品が目だってくる。終末PF(ポリティカル・フィクション)《博士の異常な愛情》(1963),葬儀を皮肉った《ラブド・ワン》(1965),軍隊風刺の《マッシュ》(1970),《キャッチ22》(1979)等々がそれである。また,例えば《地獄の黙示録》(1979)の,サーフィンをしたいばかりに海岸の解放戦線をヘリコプターで〈掃討〉するロバート・デュバルの騎兵隊中尉の描き方なども,一種のブラック・ユーモアといえ,断片的,挿話的には〈喜劇映画〉以外の映画にも,この要素が多く見られるようになる。

 一方,70年代後半になると,完全なテレビ育ち世代による喜劇がスクリーンに登場する。その特色はパロディだが,めまぐるしく変転する事象をかたはしからジョークの種にする作り方は,往年の例えば《珍道中》シリーズのテンポとはまったく異質である。前述のウッディ・アレンやメル・ブルックスにもその傾向があるが,パロディ雑誌《ナショナル・ランプーン》の編集スタッフが映画に進出した《ケンタッキー・フライド・ムービー》(1977),《フライングハイ》(1980)などに至っては,テレビ的笑いをそのままスクリーンにもちこんだにすぎない。しかし,その一派から頭角を現したジョン・ランディスは,NBCテレビの人気番組《サタデー・ナイト・ライブ》のレギュラー俳優ジョン・ベルーシを主役とした《アニマル・ハウス》(1978),《ブルース・ブラザース》(1980)で,アナーキーな不条理性に徹して映画的成熟を示した。さらに《大逆転》(1983)では,1930年代の喜劇のパターンを現代に生かそうと試みている。

日本では,サイレント時代から,斎藤寅二郎がナンセンス・どたばた喜劇を作り,伊丹万作や山中貞雄が時代物の喜劇を発表した。この時期,小津安二郎も,軽妙な風俗喜劇を次々に作っていた。当時のコメディアンとしては,チャップリンひげの小倉繁,渡辺篤があげられるが,トーキー時代に入って,いずれも舞台で人気を博したエノケン(榎本健一)とロッパ(古川緑波)が相次いで登場する。エノケンは,スピーディな曲技とがらがら声の歌で,ロッパは〈鈍足のモダンボーイ〉の軽妙な味で,それぞれ人気を博した。さらに,背広姿のモダン漫才の創始者,横山エンタツ,花菱アチャコのコンビがいる。

 戦後の喜劇映画の主流は,笑いそのものを直接追求する映画ではなく,風俗劇の方向をたどることになる。例えば,コメディアンとして登場した森繁久弥も,その代表作は,ユーモラスではあるが,しかし笑いを目的としたものではない風俗人情劇《夫婦善哉》(1955)といえる。コメディアンも1人で観客を動員することが困難になっていった。東宝を例にとれば,《三等重役》(1952)に始まる《社長》シリーズ(サラリーマン喜劇)と,《駅前旅館》(1958)に始まる《駅前》シリーズ(商売喜劇)は,いずれも,森繁,伴淳三郎,フランキー堺,三木のり平らを軸にした〈喜劇人総出演〉型である。そうした中で,植木等主演の《ニッポン無責任時代》(1962)は,サラリーマン喜劇に属しながら,陽気なピカレスクの輝きを見せ,異彩を放つが,シリーズ化された後続の作品は平凡なものとなった。

 喜劇を得意とする作家としては,〈軽薄才子〉と評された初期の市川崑が,《足にさわった女》(1952),《青春銭形平次》《愛人》(ともに1953)などで発揮したモダニズムとダンディズム,また,一見それと似た軽さを示しつつも,戦後的なニヒリズムを根本とした川島雄三の《幕末太陽伝》(1957),《貸間あり》(1959),《しとやかな獣》(1962)などの,世をすねたユーモアも忘れがたい。しかし,こうしたドライな,時として毒のある笑いは,大衆受けはしなかった。例えば木下恵介は,《お嬢さん乾杯》《破れ太鼓》(ともに1949)などの風俗喜劇や,《カルメン純情す》(1952)などの風刺喜劇に才腕をふるったが,作家論的にはむしろ《二十四の瞳》(1954)などの〈抒情映画の名匠〉として評価されることになる。このことは,結局,戦後の喜劇映画で最後に残ったのが,山田洋次の,ハナ肇主演のいわゆる《馬鹿》シリーズから,渥美清主演の《男はつらいよ》シリーズに至る一連の〈無知で気のいい男の悲喜劇〉という人情路線であることからも立証されよう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「喜劇映画」の意味・わかりやすい解説

喜劇映画
きげきえいが
comedy film

映画のジャンルの一つ。映画の誕生とともに,ギャグをふんだんに活用した映画が撮影され,次第に無声時代の短編喜劇のジャンルを形成していった。 1907年から M.ランデが活躍,最初の国際的喜劇俳優となり,12年以降 M.セネットはキーストン社で映画的な「追っかけ」などのスラップスティック・コメディを発表した。チャップリンはさらに人間性追求の本格的長編喜劇を完成し,H.ロイドや B.キートンの現代的ナンセンス喜劇,E.ルビッチの現代的風俗喜劇とともに,無声時代喜劇の黄金期を築いた。トーキー時代に入り,R.クレールの風刺的ボードビル映画,F.キャプラの性格描写のすぐれた喜劇などが,今日の喜劇映画の基礎を築いた。俳優ではボードビリアンのマルクス兄弟,B.ホープらが出現した。日本では昭和初期に斎藤寅次郎らのナンセンス映画や小津安二郎らの小市民喜劇が台頭,トーキー期に入り,ボードビリアンの榎本健一主演の喜劇映画が隆盛した。第2次世界大戦後は木下恵介が『カルメン故郷に帰る』 (1951) などの風刺喜劇を,山田洋次は渥美清主演の『男はつらいよ』 (69) シリーズで人情喜劇を発表している。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の喜劇映画の言及

【チャップリン】より

…17歳のときイギリスで人気を集めていた喜劇一座の劇団員となり,踊り,歌,道化,ものまね,パントマイムその他,のちの喜劇俳優としての成功を支えることになる基本的な技術とスタイルをすべて身につけた。 1912年,アメリカ巡業中に,勃興期にあったアメリカの喜劇映画のパイオニアであったマック・セネットに認められて,13年にキーストン社に入り,《成功争い》(1914)に初出演した。のち,キーストン,エッサネイ,ミューチュアル各社で数多くの作品に出演したが,そのほとんどで監督を兼ね,ちょびひげ,山高帽,だぶだぶのズボン,ステッキという独特の扮装と演技で個性をつくりあげ(この〈放浪紳士〉の扮装はフランスの喜劇人マックス・ランデルのスタイルを浮浪者風にアレンジしたものといわれる),アメリカばかりでなく世界中で人気を得た。…

※「喜劇映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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