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成島柳北 なるしま りゅうほく

美術人名辞典の解説

成島柳北

随筆家。江戸生。稼堂の子。名は惟弘、のち保民、別号に確堂。幕府に仕え重用され家茂経書を講じる。のち『朝野新聞』を創刊、縦横の筆をふるう。明治17年(1884)歿、48才。

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デジタル大辞泉の解説

なるしま‐りゅうほく〔‐リウホク〕【成島柳北】

[1837~1884]漢詩人・随筆家・ジャーナリスト。江戸の生まれ。本名、惟弘(これひろ)。幕臣として騎兵奉行外国奉行などを歴任。維新後欧米を外遊し、明治7年(1874)朝野新聞社長となり、文明批評を展開した。また、「花月新誌」を創刊。著「柳橋新誌」「京猫一斑」など。

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百科事典マイペディアの解説

成島柳北【なるしまりゅうほく】

幕末・明治初期の漢詩人,新聞記者,随筆家。幕府の儒臣の家に生まれ,騎兵頭,外国奉行などを務めたが,江戸開城で下野。1872年欧米に遊び,1874年《朝野新聞》に主筆として入り,のち社長,末広鉄腸を招いて主筆とした。
→関連項目大新聞・小新聞大槻磐渓栗本鋤雲朝野新聞

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

成島柳北 なるしま-りゅうほく

1837-1884 幕末-明治時代の儒者,新聞人。
天保(てんぽう)8年2月16日生まれ。成島筑山(ちくざん)の3男。幕臣。奥儒者。のち騎兵頭(がしら),外国奉行,会計副総裁。維新後は朝野(ちょうや)新聞社長として新時代を風刺,批判し政府の言論弾圧とたたかった。明治17年11月30日死去。48歳。江戸出身。名は惟弘(これひろ)。字(あざな)は保民。通称は甲子太郎。別号に確堂,何有仙史。著作に「柳橋新誌」「航西日乗」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

成島柳北

没年:明治17.11.30(1884)
生年:天保8.2.16(1837.3.22)
幕末期の幕臣,明治初期の文筆家。本名惟弘,字は保民,確堂。柳北は号。幕府奥儒者の家に生まれ,20歳で将軍侍講。文久3(1863)年上層部の因循を狂歌で諷し解任されると洋学に関心を広げ,幕府瓦解の2年間には騎兵頭として幕府軍のフランス式近代化のために奔走。維新後は仕官を拒否,「無用之人」を自称した。隠棲と欧米旅行ののち,明治7(1874)年以降『朝野新聞』で機智溢れた政府批判を展開して喝采を浴びる。9年,前年新設の讒謗律で投獄されると『ごく内ばなし』で監獄の実態を暴き出すしたたかさをみせた。花街の醜悪な変貌を描いた『柳橋新誌』第2編(1874)は戯文の滑稽の中に旧江戸への愛着と「文明開化」への深い疑いが滲む。10年に創刊した詩文雑誌『花月新誌』連載の洋行記「航西日乗」は何げない私的な日録という形式自体,当時の国家第一の文明摂取のありかたと鋭く対立する。<参考文献>前田愛『成島柳北』

(徳盛誠)

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世界大百科事典 第2版の解説

なるしまりゅうほく【成島柳北】

1837‐84(天保8‐明治17)
幕末・明治初期の漢詩人,随筆家,新聞記者。本名惟弘,別号何有仙史など。江戸に生まれる。代々将軍の侍講を勤める家柄で,1853年(嘉永6)に家督を継ぎ,《徳川実紀》《後鑑》の編纂に携わったが,63年(文久3)狂詩を賦して幕閣の因循を諷したかどで侍講職を免ぜられた。これを契機に洋学を学習,抜擢されて騎兵頭をはじめ,外国奉行,会計副総裁などの要職を歴任。維新後は〈天地間無用の人〉を自称して野に隠れた。東本願寺法主に随行して欧米を漫遊したこともある。

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大辞林 第三版の解説

なるしまりゅうほく【成島柳北】

1837~1884) 新聞記者・漢詩人。江戸の人。名は惟弘これひろ。徳川家茂の侍講、外国奉行などを務めたが、維新後は仕官を拒否。「朝野新聞」に拠って時事随想を発表。1877年(明治10)「花月新誌」を創刊。漢文戯作体で文明開化を風刺した「柳橋りゆうきよう新誌」ほか、「航西日乗」「柳北詩抄」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

成島柳北
なるしまりゅうほく

[生]天保8(1837).2.16. 江戸
[没]1884.11.30. 東京
明治初期の新聞記者,随筆家。本名は惟弘。 17歳で儒者の家を継ぎ,14代将軍家茂の侍講となり,幕末には外国奉行,会計副総裁として活躍。維新後は野に下り,1872年欧米を漫遊。 1874年に『柳橋新誌』を著わして文名を揚げた。『朝野新聞』の社長となり,民権派ジャーナリストの雄と目されたが,1876年には新聞紙条例違反で投獄された。 1877年の西南戦争の際には京都まで行ったが,戦況には触れず,もっぱら風流談を送稿し,ために『朝野新聞』は声威を損じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

成島柳北
なるしまりゅうほく
(1837―1884)

漢詩人、随筆家、新聞人。本名惟弘(これひろ)。別号何有仙史(かゆうせんし)など。父祖代々の奥儒者の子として、江戸浅草に生まれた。家督を継ぎ、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の侍講などを経て、幕末、騎兵頭(きへいがしら)、外国奉行(がいこくぶぎょう)、会計副総裁など歴任。慶喜(よしのぶ)退隠後、1869年(明治2)隠居して向島(むこうじま)に閑居、新政府には仕えず、自ら「無用の人」と称した。山陽地方への紀行『航薇日記(こうびにっき)』(1869)、ヨーロッパ旅行記『航西日乗(こうせいにちじょう)』(1872~1873)などのほか漢文随筆の『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』(1874年刊)を書き、新時代風俗への嘲罵(ちょうば)をほしいままにした。1874年以後『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』社長となり「奇文」の文名が高かったが、1877年『花月新誌(かげつしんし)』を創刊主宰、前記紀行のほか『鴨東新誌(おうとうしんし)(京一斑(きょうびょういっぱん))』を掲げた。[岡 保生]
『『明治文学全集4 成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集』(1969・筑摩書房) ▽前田愛著『成島柳北』(1976・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内の成島柳北の言及

【朝野新聞】より

…日刊。最盛期は,社長の成島柳北(なるしまりゆうほく)がコラム〈雑録〉で,主筆の末広鉄腸が論説で藩閥政府を風刺,痛罵した自由民権期であり,民権派の新聞として81年には日刊部数1万を超え,政論新聞第1位を誇った。成島の死亡や民権運動の衰退とともに急速に衰えた。…

【柳橋新誌】より

成島柳北の漢文随筆。全3編で,初・2編は1874年刊。…

※「成島柳北」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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