改訂新版 世界大百科事典 「植民地教育」の意味・わかりやすい解説
植民地教育 (しょくみんちきょういく)
ある民族,ある国を植民地にすると,支配本国はそこに本国の秩序・文化に同化させ,本国に依存して生きる意識を植えつけることを目的にした教育を持ちこむ。しかし,植民地の人々にとってみれば,これは自民族の教育権利を奪われ,支配本国の教育を押しつけられて,それを自分のものにするよう強制される,一連の非教育的体系にほかならない。19世紀後半から20世紀前半にかけてのいわゆる帝国主義の時代,イギリス,フランス,ドイツ,アメリカ,オランダ,イタリア,ポルトガル,日本などは,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカを分割し,植民地として支配した。植民地制度じたい,植民地民族に隷属を強い,民族的劣等感を培う強大な教化機構であったが,そのうえ,統治と経済を助ける現地管理層を必要としたので,その人材養成のために近代学校制度を導入して,それぞれの本国の教育内容を移植していった。ここに植民地教育制度が成立する。20世紀前半は全世界的に植民地教育制度が普及した時代であった。植民地において,本国はごくわずかな学校を設け,現地エリート(開化民)の養成をはかった。その学校では,もっぱら本国の言語と文化と歴史を教え,自民族のそれらを恥じるようにしむけた。さらに,近代の民主主義思想および科学技術を伝えないで,自立の道を閉ざそうとした。植民地における近代学校は,植民地支配が正当であると思いこませる手段として役立てられてきたのである。
日本の場合,早くから内国植民地としてアイヌに同化教育を強要してきたが,台湾,朝鮮,ミクロネシア,〈満州国〉,〈大東亜共栄圏〉と植民地を拡大するに応じて,それらアジア民衆に〈日本帝国臣民タルノ要素〉(初代朝鮮総督寺内正毅のことば)を植えつける植民地教育を,武力を背景にし,学校を通路として拡大していった。日本語の普及,天皇制思想の弘布,日本の歴史・文化の教授が,その中心的な内容であった。こうした〈日本化〉のための教育も1945年の敗戦と同時に一挙に崩壊したが,在日朝鮮人の子弟にたいしては,今なお実質的に,それが生きつづけていることを見すごしてはならない。
制度としての植民地教育は,50年前後におけるアジア諸国の独立,60年前後におけるアフリカ諸国の独立という二つの高潮を転機にして,ほぼ消滅した。教育主権を取りもどした新興独立国は,植民地教育のアンチテーゼとして,自国の教育を構想,実行していくようになったのである。
このような状況の変化のもとで,世界資本主義構造における支配・被支配の関係を実質的に保ちつづけるためには,先進国依存の文明意識を新興独立国民衆にふたたび普及せねばならない。先進資本主義諸国は新しい教育文化支配の様式を実施するようになった。新植民地主義の教育である。60年代より〈先進国〉による教育援助計画がいっせいに開始され,またこれに重なるかたちで,マスコミを操作して資本主義文明の称揚もはかられている。これらの背後に多国籍企業の強い影響が見えるのが,今日の特徴である。
→民族教育
執筆者:小沢 有作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報