1950年代後半以降、アメリカの対外直接投資が急増し、アメリカ巨大企業のほとんどが単にその製品を海外で販売するだけでなく、いくつかの外国に生産拠点をもち、かなりの比率の在外生産を行うようになったが、多国籍企業問題が脚光を浴びるようになったのは、そのような状況を背景としていた。
[佐藤定幸]
用語としての「多国籍企業」を最初に用いた人物はニューディール期にTVA長官を務めたことのあるD・リリエンソールといわれているが、最新の重要な経済現象としてそれを取り上げ、アメリカの巨大企業がそれに対応した新しい経営管理機構をもつ必要を強調したのは、アメリカの経済雑誌『ビジネス・ウィーク』(1963年4月20日号)が最初であった。同誌によれば、いまやアメリカの巨大企業の総資産、総生産高、総利潤、総雇用のなかで海外活動部門の占める比率は急速に高まりつつあるが、このような企業にあっては、海外活動が国内での活動の単なる付け足しであってはならない。すなわち、「国際的活動を行う国内指向的企業」であってはならない。積極的に定義づけるならば、この多国籍企業は「少なくとも一つ以上の外国に定着した製造拠点、またはその他の形態における直接投資をもち、真の意味でグローバルな見通しをもち、その経営者は市場開拓、生産および研究に関する基本的決定を世界中のどこででも実行しうべき対策として打ち出す」ような企業である。
ここで重要なことは、このような多国籍企業の定義に当てはまる企業が従来存在したか否かではない。その資産、生産高、利潤、雇用のかなりの部分を海外が占めるという企業は、たとえばエクソン(現エクソンモービル)の前身であるスタンダード石油(ニュー・ジャージー)のように、とくに資源採取産業においては昔から少なからず存在した。問題は、特定の産業、一部の企業について例外的に見受けられた傾向が製造工業を含めて全産業に及び、しかも巨大企業一般に共通した傾向となったという点にある。
[佐藤定幸]
第二次世界大戦終了後の世界経済において、アメリカは圧倒的優位を占めていた。しかし、大戦直後の1946年には、アメリカの民間長期資本輸出残高はわずかに123億ドルにすぎず、1930年の152億ドルを大きく下回っていた。戦争の打撃からいまだ起(た)ち上がれぬ資本主義世界経済は、アメリカ資本の有利な投資先とはいえなかったからだった。アメリカ資本は対外資本進出よりも、国内で生産された商品の輸出を選んだ。ところが、アメリカ対外投資は1950年代後半を転機に急激に増大し続け、長期資本輸出残高も1946年の123億ドルから、1960年には445億ドル、1970年には965億ドル、1985年には2303億ドルとなった。しかも、民間長期資本残高が1946年から1970年までに約8倍に増大したなかで、その構成において直接投資の比率が証券投資を圧倒するに至った(直接投資と証券投資の比率は、1930年には10対9であったが、1955年には7対3に、さらに1970年には3.5対1になっている)。同時に、アメリカの対外直接投資が全体として急増していくなかで、その産業別、地域別分布にも大きな変化が生じた。戦前はもとより第二次世界大戦直後でも、アメリカ対外直接投資の重点は、産業的には石油を中心とする採取産業、地域的には中近東および中南米に置かれていた(アメリカ経済の「付加物」とすらいわれているカナダを別として)。しかし、前述のようにアメリカの直接投資が増大していくなかで、その重点は産業的には製造工業、地域的にはヨーロッパに移行していった。すなわち、製造工業の比率は1929年の14.8%から1960年には34.0%、1970年には41.3%に増大したのに、農業、鉱業、石油の比率は1929年の42.2%から1960年には42.6%となったあと、1970年には35.8%に低下した。また、1929年には18.0%、1950年でも14.8%にすぎなかったヨーロッパの比率は、1960年には21.0%、1970年には31.3%(さらに1985年には45.7%)にまで上昇したのだった。
アメリカ巨大企業の多国籍企業化過程は、裏面からみれば、アメリカ資本のヨーロッパ製造工業への進出過程にほかならなかった。当時のヨーロッパ経済は、1957年のローマ条約を経て共同市場化が進行し、戦後復興から急速な経済発展過程をたどりつつあったが、アメリカ資本のこのような大量的流入は、一面ではその経済発展を促進はしたものの、他面ではアメリカ資本によるヨーロッパ経済「植民地化」の危機感をあおることになった。当時のフランス大統領ドゴールはヨーロッパ共同体(EC)外からの投資(アメリカの対欧投資)の規制問題をEC蔵相会議に持ち込んだほどだった(他の諸国の賛成が得られず、結局フランス自身もアメリカ資本対策の転換を余儀なくされた)。このような「危機感」は、当時ヨーロッパのベストセラーとなったセルバン・シュレベールの『アメリカの挑戦』(1967)の巻頭の次の文章にもっともよく表現されている。「これから15年もすると、『ヨーロッパにおけるアメリカ企業』こそが、ヨーロッパを出し抜いてアメリカ、ソ連に次ぐ世界第三番目の経済力をもつことになるだろう。共同市場が9年目を迎えた現在、すでにヨーロッパ市場の大本はアメリカになっている」。
[佐藤定幸]
確かに、アメリカのヨーロッパ諸国向け対外直接投資の増大は、これら諸国経済におけるアメリカ系企業の役割を増大させ、少なからぬ経済的政治的摩擦をアメリカ企業とこれら諸国との間に生ぜしめたが、それはドゴール大統領の権威とその政治的手腕をもってしても押しとどめることのできない歴史的に必然的な過程であった。多国籍企業を生み出したのは、アメリカ資本の「世界征服欲求」だけではなかったからである。そのような意味での「世界征服欲求」は、資本主義のそもそもの発生期からどこの国の資本にも内在していたといってよいだろう。多国籍企業を生み出したのは、第二次世界大戦後にますます緊密の度を加えた国際経済関係そのものにほかならない。第二次世界大戦前のようなブロック化への後退は資本主義世界経済の自殺行為であることがだれの目にも明白となったとき、貿易、資本の自由化はどのような困難を伴おうとも資本主義にとって唯一無二の選択であった。さらに、第二次世界大戦後の科学技術の急速な発展、とくに運輸・通信機関の飛躍的な発展は、世界市場の質的変化をもたらさざるをえなかった。「地球は狭くなった」としばしばいわれるが、それと同じ意味で世界市場は一つの国民的市場に限りなく近づいた。現に国境は存在し、国家的利害対立は否定しうべくもないが、資本にとってもはや国境は事実上存在しなくなったといってよい。いまでは、多国籍企業はその本国の各地に散在する諸工場を効率的に集中管理できるのと同様に、全世界の各国にあるその在外子会社を本社から効率的に集中管理できるようになった。
多国籍企業がこのように、単にアメリカ巨大企業の別名ではなく、「国際経済関係が高度に緊密化した現代資本主義のもとにおける巨大独占企業の一般的な存在形態」であるとすれば、1950年代末以降のアメリカの対西欧諸国向け直接投資の急増から、アメリカ資本の「西欧征服」の可能性だけを取り上げてうんぬんするのは妥当ではなかった。もちろん、そのような可能性は理論的には排除しえないにしても、その後の事態の発展が示したように、別の可能性――アメリカ資本との世界市場競争に勝ち抜くため、西欧諸国の巨大企業自身も多国籍企業化への道に乗り出すという可能性のほうがはるかに大きかった。1960年代の西欧では、アメリカ多国籍企業との競争という観点から、西欧諸国での国境を越えた企業の合併、集中が盛行したが、やがて1970年代に入ると大西洋を越えた対米投資が増大されるようになった。世界市場競争という観点からすれば、単一の国民的市場としては世界最大のアメリカ市場への進出は、多くの企業にとって絶対的な必要事であったからである。
[佐藤定幸]
1950年代後半から始まったアメリカ企業の多国籍化がその第一の波、1960年代末から1970年代初めにかけてのヨーロッパ企業のそれが第二の波であるとすれば、1970年代末からの日本企業の多国籍企業化はその第三の波にほかならない。
日本の巨大企業は従来その製品輸出を通じて世界市場で一定のシェアを維持してきた。しかし、自動車産業の場合に典型的にみられたように、その最大の海外市場であるアメリカ市場を維持しようとすれば、在米現地生産は不可避となった。それは直接的には、アメリカにおける保護貿易主義の高揚を回避するためやむなく実行されたかにみえるが、客観的には日本企業の多国籍企業化過程という歴史的に必然的なコースを歩んでいるにすぎない。
日本の多国籍企業は、伝統的な勢力圏たる東南アジア諸国市場への進出に加えて、アメリカ市場への本格的な展開を終え、最近ではEU(ヨーロッパ連合)諸国や中国、インドなどへの進出を加速している。とくに中国は日本の多国籍企業にとっていまや単なる安価な労働力を提供してくれる在外生産基地ではなく、その貿易額においてもアメリカを上回る貿易相手国となっている。2兆ドル以上の外貨準備を擁し、遠からず日本を追い抜いて世界第2位のGNP大国になろうとしている中国の出現は、日本の多国籍企業の今後の展開にも大きな変化をもたらすに違いない。
[佐藤定幸]
各国巨大企業の多国籍企業化がここまで進むと、いまや対外直接投資の一方的な出し手も受け手もなくなる。先進諸国はみな巨額の対外直接投資を行うと同時に、巨額の外国直接投資を受け入れているからである。第二次世界大戦直後には事実上世界で唯一の対外直接投資国であったアメリカだが、1970年代、1980年代を経過するうちにその対外直接投資を漸減させていった一方で、西欧や日本など諸外国は逆に対米直接投資を急増させていった。1989年には、ついにアメリカに対する諸外国の直接投資残高がアメリカの対外直接投資残高を上回るに至った。先進国のなかで、巨額の対外直接投資残高をもちながら比較的に少額の対内直接投資しか受け入れてないのは日本だけだが、それでも国内市場開放、諸規制緩和の進行とともに、諸外国の対日投資残高は急速に増大しつつある。
近年とくに1990年代に入って、世界市場における競争がますます激烈化するにつれて、多国籍企業間の国際的吸収・合併運動が盛んになっている。金融、情報・通信の分野でそれはとくに顕著である。
[佐藤定幸]
2008年、158年の歴史をもつアメリカ第4位の証券会社リーマン・ブラザーズの倒産をきっかけとして全世界を巻き込んだ国際金融危機は、世界経済に100年に一度といわれる深刻な経済危機をもたらしたが、当然それは多国籍企業にも多面的な影響を与えた。この危機に先だって展開された20世紀末から21世紀始めにかけてのグローバリゼーションは、世界経済のいっそうの拡大・発展を促進するとともに、多国籍企業の役割をも飛躍的に拡大させたのだった。かつてその創成期において、多国籍企業はアメリカの巨大企業と事実上同義語ですらあった。だが、それに対抗した西欧諸国、日本にも続々と多国籍企業が誕生し、全世界市場において激しい競争を展開するようになった。その結果、一方ではフィンランドのノキアのようにいわゆる小国生まれの多国籍企業がその独特の技術競争力を武器に世界市場に進出するかと思えば、他方では中国やインドのようなかつての開発途上国でも多国籍企業が出現している。
こうした「多国籍企業の百花繚乱(りょうらん)」時代に、世界経済は未曽有(みぞう)の地殻構造変動期に突入したのだった。多国籍企業のあり方と活動形態に大きな変化が生ずるだろうことは十分予想されるところだが、2009年4月には長年世界最大の製造企業の地位を誇ってきたアメリカのゼネラル・モーターズが連邦破産法第11条の適用を受けてアメリカ政府の管理下におかれたばかりか、全米第3位自動車メーカーのクライスラーもイタリアのフィアットの傘下に入ってからくも消失を免れるというありさまであった。同じように、グローバリゼーション時代に世界経済をわが物顔で牛耳(ぎゅうじ)っていた投資銀行も、世界的金融危機の打撃をまともに受け、倒産するものもあれば、ほかの商業銀行に買収されて何とか存在を維持できたものもあるが、サブプライムローン問題で投資銀行に対する批判が全世界的に高まった結果、実質的にかつてのような投資銀行業務の継続はもはや不可能になってしまった。
多国籍企業は単に巨大であるだけでなく、その国際的な集中管理という機構からしても、それを個別の資本主義諸国家の規制下に置くことはきわめて困難である。たとえば、ある国が景気対策の必要上から引締め政策をとろうとしても、多国籍企業の子会社は親会社ないし他の外国にある子会社から資金の供給を受けることができる。たとえ外国からの資金流入を抑えても、その子会社と親会社(ないしは他の子会社)との間の取引に対する支払い期間延長、ないしは輸出入価格の人為的操作(トランスファー・プライシング)を通じて、実際上、送金と同じ結果を得ることはきわめて容易である。多国籍企業が擁する流動資金が近年の一連の国際通貨危機の有力原因となっていることは、よく知られているところである。
多国籍企業と国家主権の矛盾を身をもって痛感しているのは、開発途上諸国である。外国の巨大企業が開発途上諸国の経済ばかりか政治まで支配していた例は、中米の「バナナ共和国」に対するアメリカのユナイテッド・フルーツ・カンパニーをはじめ枚挙にいとまがないほどである。そのような帝国主義の植民地支配の「古典的実例」は、第二次世界大戦後の民族解放運動の高揚のなかで、いまではあまりみられなくなった。しかし、1953年のイランのモサデク政権転覆におけるアングロ・イラニアン石油や、1973年のチリのアジェンデ政権転覆の際のITTのように、現在でも外国巨大企業はその死活の利益が危殆(きたい)に瀕(ひん)するときには、あえて政治の前面に出ることも辞さない。このため開発途上諸国は、こうした外国巨大企業の支配を排除することにきわめて熱心であり、国連その他の国際機構において多国籍企業の行動を規制するための行動規準づくりに熱心である。国連経済社会理事会の決議に基づきつくられた「多国籍企業の役割、および開発プロセス、とくに開発途上国の開発プロセスに対するその影響を研究するための……有識者グループ」が1974年5月に発表した53の勧告は、こうした開発途上諸国の要求に応じたものであった。しかし現実には、先進国政府の反対が強く、それが行動規準に取り入れられる可能性はきわめて少ない。とはいえ、開発途上諸国の要求で実現をみた成果も少なくない。とくに1972年12月18日に採択された国連総会決議第3016号「開発途上国の天然資源に対する恒久主権」の意義はきわめて大きい。いわゆる資源ナショナリズムの高まりのなかでかちとられた同決議は、天然資源に対する恒久主権を認めることによって、開発途上国が外国資本の支配下にある天然資源を国有化する道を開いた。いまでは、ベネズエラにおいても、サウジアラビアにおいても、国際石油資本は国有化そのものの「非合法性」を訴え、それに反対することはなくなった。
なお、国連では、多国籍企業を「二つ以上の国で資産(工場、鉱山、販売その他の事務所)を支配するすべての企業」と定義づけているが、これは外国資本の行動規制という観点から採用された便宜的な定義であり、学者でこの定義を支持している例は少ない。また、多国籍企業の英語訳についても、国連ではmultinational enterpriseではなくtransnational enterpriseが採用されている。
[佐藤定幸]
『佐藤定幸著『多国籍企業の政治経済学』(1984・有斐閣)』▽『C・P・キンドルバーガー編、藤原・和田訳『多国籍企業』(1971・日本生産性本部)』▽『ジョージ・ボール編『多国籍企業――その政治経済学』(1976・日本経済新聞社)』▽『R・バーネット、R・ミュラー著、石川・田口・湯沢訳『地球企業の脅威』(1975・ダイアモンド・タイム社)』▽『レスター・サロー著、土屋尚彦訳『大接戦』(1972・講談社)』▽『ジェトロ白書投資編『世界と日本の海外直接投資』各年版(日本貿易振興会)』
MNC,TNCなどと略称する。〈鉱山・工場・営業所等の資産を複数国において所有・支配しているすべての企業〉(国連社会経済理事会報告,1972)というように広い定義が与えられているが,実際には4~6ヵ国以上にまたがり,資源ないしは製造業関連の企業で,売上高1億ドル以上の大企業(たとえば,エクソン,IBMなど)が多国籍企業と呼ばれるようである。またこの言葉は1960年にD.H.リリエンソールが使ってから有名になった。もっとも最近は多くの発展途上国に経済開発融資を行っている多国籍銀行が注目を浴びるようになっており,また,日本の総合商社や欧米の巨大穀物商社は世界各地に支店・営業所を置いて,世界規模の視野から営業活動をしている。こうした実情からすれば,これら金融や流通関係の大企業も含めてよいであろう。
すでに第2次大戦以前からアメリカやヨーロッパの企業は中南米やアフリカ,中近東でプランテーション農業,金属鉱山,原油等の資源開発と世界規模でマーケティングを行ってきた。しかし1950年代以降,製造業分野でのアメリカ企業の多国籍企業活動が活発化したが,これはプロダクト・サイクル・モデルで説明される。つまり第2次大戦後,新商品・新技術の開発や企業化の多くはアメリカで行われた。それは,アメリカが最も所得水準が高く,新商品の需要が見込まれたし,高賃金で省力化技術の導入に積極的だったからである。しかし技術的にも完成して標準化し,アメリカ国内需要が満たされ,国内利潤率が低下してくると,つぎの所得水準にあるヨーロッパや日本等への販売を求めて輸出に転ずる。これら輸出先で輸入代替生産が起こってきたり,関税等による輸入制限がとられると,市場防衛のため輸出先に子会社や合弁企業を設立して,現地で生産・販売を行うようになった。海外直接投資である。
この場合,工場機械設備や生産技術のみならず,新商品・新技術に適した経営管理・販売のノウ・ハウをもった技術者,経営管理・販売専門家も派遣して,一般労働だけは現地でより安い賃金で雇用した。このようにして現地の競争企業に対しては新技術や経営販売ノウ・ハウで対抗し,同時に製造コストを引き下げて高い利潤率を維持しようとしたわけである。生産技術が確立して量産になじむようになると,もっと賃金の低い発展途上国に生産拠点を移して,アメリカ本国も含めてこれまでの販売先に輸出するようになった。このようにして生産・販売の多国籍化が達成されてきた。
多国籍化に伴って企業の経営組織も変えられていく。初めは国内販売部門に加えて輸出部門を設けるが,海外生産・販売を統轄する海外事業部に発展させる。海外事業活動がいっそう拡大すると本社のみでは統轄できなくなるので,地域別あるいは製品別に組織を分け,それぞれに権限を部分的に委譲するようになる。
企業の多国籍化は相つぐ新製品・新技術の開発や運輸通信の発展に対応した企業の合理的行動であることは間違いないが,それは果たして各国経済の発展に役立つのであろうか。多国籍企業は進出先の国の富を抜きとって本国その他へ移すように仕組まれたポンプであるとする懐疑的な見方がある。たしかに多国籍企業の本社と子会社間で原材料や製品の取引をする場合に取引価格を操作して関税支払を低くする移転価格の慣行や,本国の高率の法人税を支払うことをきらってタックス・ヘイブン(税金避難地)といわれる小国に本社の名目的所在地を移してしまうという企業戦略が伝えられている。また景気が後退すると一部の国の生産だけを続行して,他国の工場を閉鎖してしまい,大量の失業やレイオフ(一時解雇)を出すといった実例も紹介されている。しかしこれらは多分に古典的批判であって,一国内の複数地域にまたがって活動する企業にもあてはまるものが多い。アメリカに本社をもつ多国籍企業についての調査によると,彼らの現実の経営行動はそれとは違っているようである。海外活動が成熟化するにつれて,海外子会社に権限を委譲して現地の状況に即応した戦略をとらせ,利潤の現地での再投資比率も高い。本社に最大限の利潤を集中するという一般的傾向は見いだされない。さらに国連の多国籍企業の行動指針code of conductsや各国政府の規制策も整備されて,前述のような反公共的な企業戦略がとりにくくなっている面もある。
基本的には,多国籍企業は現代の世界経済において希少資源である生産・管理・販売技術を開発して,世界規模で最適配分する役割を果たしている。国際金融市場で資本を調達し,生産的用途に振り向ける役割も果たす。第2次大戦後の世界経済の高度成長の主要な担い手のひとつであったことは否定できない。
1960年代末から日本企業による海外直接投資が活発化してきた。対外投資自由化に刺激されたこともあるが,基本的には輸出市場の確保と国内賃金高騰をさけて,東南アジアに製造業分野で進出したものが多い。もっとも日本企業の場合,欧米企業に比べて,海外現地法人の株式所有比率の少ない合弁企業が多く,また合弁に日本の総合商社が参加しているケースが多い。これは当時日本の製造企業が国際経営ノウ・ハウの不足を補うためと説明されている。この総合商社こそ,世界各地に販売・情報網をもち,合弁を通じて生産面にも関与して,販売・生産の世界戦略をもっていた,日本での多国籍企業の先駆であったとみなすこともできる。もっとも最近は対欧米経済摩擦が高まるなかで,本田技研工業がアメリカに工場をつくるなど自動車・電気機器等の製造企業が独自で欧米諸国に進出する例が増加した。日本製造業の多国籍展開は1980年代後半に急増した。85年から進行した円高化で日本の国内生産の競争力が弱まった結果であり,進出先では特にASEAN(東南アジア諸国連合)諸国と中国に,分野別では電気・電子機器と自動車,その他機械部品製造に集中した。
執筆者:山沢 逸平
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(高橋宏幸 中央大学教授 / 2007年)
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複数の国家に工場や研究開発(R&D)拠点を持ち,世界的規模で生産・販売活動,技術開発などを展開し,世界的視野で意思決定を行う企業。国際的企業は決して新しいものではないが,大規模な資本投資を行い,複数の国々で事業活動を展開し,国際社会に影響を及ぼす国際的行為主体として認知されるようになったのは1960年代以降のことである。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…いうまでもなく三者構成の仕組みは,労働組合と使用者団体が政府から真に独立した存在であることが前提になるからである。多国籍企業問題を60年代にいちはやく取り上げたILOが〈多国籍企業と社会政策に関する原則の三者宣言〉(1977)は出したものの,肝心の条約化にまで進められない理由はこの点にある。またこの新しい事態に対応するため63年の総会は機構改革に着手したが,いまだに審議中である。…
… 1980年代に入ってグローバリゼーションという用語が頻繁に用いられてきた背景には,運輸通信手段の飛躍的な発展を基盤として,国境をこえた経済的・政治的あるいは文化的・社会的な相互依存・交流が拡大した,という認識があった。多国籍企業と呼ばれる巨大企業の国境をこえる活動,通信手段の飛躍的発展によってもたらされたディジタル情報とコンピューターとの結合,巨額の資金が瞬時のうちに世界を駆けめぐる24時間の金融市場,オゾン・酸性雨や原子力など地球的規模で解決を迫られている環境問題,世界的規模で進行する労働の不安定就業化(カジュアライゼーション)と経済活動の非公式化(インフォーマライゼーション),1億人を上回る大規模な移民(外国人労働者)や難民の存在など,個々の国を単位としてはもはや処理しえない問題に人類は直面している。輸送通信手段の発達は国境をこえたさまざまな交流を飛躍的に拡大し,情報は瞬時のうちに世界中を駆けめぐる。…
… 従来のアメリカ中心の国際政治学史では,伝統的国際システム論,いくつかの型の対外政策決定論,いくつかの型の相互依存論・新機能主義的統合論,さまざまなレベルの連係政治論,国際政治の地域文化的近代化論,従属論,中心・周辺論,国際政治のヘゲモニー国家ないし同盟論などが,ほぼこの順序で展開されてきた。国際政治の行為主体の多様化というパラダイムからは,主権国家主体の伝統的リアリズム理論,多国籍企業(MNC)主体の相互依存理論,個人のアイデンティティ主体の中心・周縁理論の3類型が,行動科学的方法の基礎となっているデカルト・ニュートン的パラダイムの方向で実証科学化される流れが主流となっている。これら3類型の複雑な変容のなかで,古典的主権国家以外の行為主体が,国際連合,その系列の政府間国際組織(IGO)から,徐々に多国籍企業(MNC)や一般の非政府間国際組織(INGO)へとその比重を移行させている。…
… しかしながらその一方では,政治的独立後も旧本国との経済的従属関係を持続している〈新植民地〉も多数存在している。このことは,もはや現在の世界システムにおいては,植民地化という政治的従属関係は,周辺部側の抵抗力の増大もあって維持しにくくなったこと,多国籍企業に代表されるように経済的従属関係のほうがより重要な意味をもつようになったことを意味する。もっとも,近年の中東,中米やカリブ海諸国(とりわけ1983年のアメリカのグレナダ侵攻)においてみられるように,直接的な軍事力の行使という支配手段もけっして古典的となったわけではない。…
…その代表的な国,地域としてはバハマ,パナマ,バミューダ諸島,ケイマン諸島,ホンコンなどがある。 最近において多国籍企業の活躍がますます盛んになりつつあるが,多国籍企業とは,多数の国に子会社を設立して事業を行う。このような多国籍企業は,次のような形で租税回避を行う。…
…外国で直接事業活動を行うところに特徴があり,対外(海外)直接投資direct foreign investmentともいわれる。直接投資を行う企業は,多国籍をもつ,あるいは国境を越えて生産活動を行うため,〈多国籍企業〉〈超国家企業〉とも呼ばれる。直接投資が世界的な現象として注目されるようになったのは1960年代以降である。…
…たとえば,貿易や対外投資の増大により,ある国と他国との間で行われる貿易や投資の動向が,両国政府間の外交や軍事関係以上に,両国の社会間に大きな影響を及ぼすことが日常化しているし,また,ある国の市民が,自国の政府をとおさずに,直接に他国の政府に何らかの働きかけ(たとえばデモ)を行った結果,その政府の政策が変更されるということも,今日しばしばみられるところである。さらに現在,トランスナショナルな組織とりわけ巨大多国籍企業が,時には政府以上に,国際経済や国際政治の動向に大きな影響力を与えていることは周知の事実である。 このように現代ではトランスナショナルな関係・組織が国際社会に大きな影響力を及ぼしているが(以下,このような現象を〈トランスナショナル化〉と呼ぶ),これを推進してきた主体は,〈南〉の開発途上社会よりも〈北〉の先進社会であり,また,一般市民よりもエリートであった。…
※「多国籍企業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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