植草甚一(読み)ウエクサ ジンイチ

20世紀日本人名事典 「植草甚一」の解説

植草 甚一
ウエクサ ジンイチ

昭和期の評論家,エッセイスト



生年
明治41(1908)年8月8日

没年
昭和54(1979)年12月2日

出生地
東京市日本橋(現・東京都中央区)

学歴〔年〕
早稲田大学理工学部建築科〔昭和5年〕除籍

主な受賞名〔年〕
日本推理作家協会賞(第32回)〔昭和53年〕「ミステリー原稿夜中徹夜で書こう」

経歴
昭和10年東宝入社。宣伝部、調査部などを経て、19年東宝直営の映画館・新宿文化主任となる。戦後23年東宝を退社、本格的な執筆活動に入り、映画・ジャズ評論から、現代文学、探偵小説と広範囲にわたるエッセイを発表。アメリカのリトル・マガジン文化の第一人者として知られ、ノーマン・メイラー、アップダイク等を先んじて紹介。48年雑誌「ワンダーランド」を創刊、これが後に「宝島」になる。その雑学と博識で従来にない評論のスタイルを確立した。著書に「ファンキー・ジャズの勉強」「ジャズの前衛と黒人たち」「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」「ぼく散歩と雑学が好き」のほか、「植草甚一スクラップブック」(全40巻別巻1 晶文社)がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「植草甚一」の意味・わかりやすい解説

植草甚一
うえくさじんいち
(1908―1979)

評論家、エッセイスト。東京・日本橋生まれ。早稲田(わせだ)大学建築科中退。初め外国映画、とくにヒッチコックのスリラー映画などに独自の批評を展開。さらに欧米の現代文学、推理小説、現代美術、漫画、ジャズなどの現代音楽の紹介・批評へと多くの趣味を生かして広範囲に活躍。1960年代以降は自らニューヨーク生活を繰り返して、つねに現代に密着した自由な雑学精神で一生を貫き、前衛的若者芸術の教祖的存在でもあった。著書に『僕は散歩と雑学が好き』(1970)、『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』(1972)、『映画だけしか頭になかった』(1973)など多数。

[志賀信夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「植草甚一」の意味・わかりやすい解説

植草甚一【うえくさじんいち】

評論家,雑学の大家。東京生れ。早稲田大理工学部中退後,東宝に入社。戦後,映画評論を手がけるかたわらジャズやミステリーの造詣を深め,1970年エッセー〈ぼくは散歩と雑学が好き〉を発表。1973年雑誌《ワンダーランド》を創刊し,サブカルチャーを普及させた。1974年はじめてニューヨークへ旅行。本,映画,ファッションなど米国の様々な文化を独特の視点でとらえ,雑誌《話の特集》や《宝島》などに寄稿,若者の教祖的存在となる。《植草甚一スクラップ・ブック》(全40巻,別巻1。1976年−1980年。2004年以降復刊)がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「植草甚一」の解説

植草甚一 うえくさ-じんいち

1908-1979 昭和時代後期の評論家,エッセイスト。
明治41年8月8日生まれ。戦後東宝を退社し,映画,ジャズ,海外ミステリーなどの評論,紹介に活躍。独特な文体,個性的なライフスタイルが若者の支持をえた。「ワンダーランド」(のち「宝島」)を創刊,編集。昭和54年12月2日死去。71歳。東京出身。早大中退。著作に「映画だけしか頭になかった」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「植草甚一」の解説

植草 甚一 (うえくさ じんいち)

生年月日:1908年8月8日
昭和時代の評論家;エッセイスト
1979年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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