日本歴史地名大系 「椿井城跡」の解説
椿井城跡
つばいじようあと
[現在地名]山城町大字椿井 中垣内
椿井の南端の丘陵上、
「経覚私要鈔」文明三年(一四七一)六月四日条に「大内勢少々山城へ下云々、山城椿井等ニ有新城可責其用歟云々」、同一二日条に「山城椿井上山ニ山城面々今度新構城在之、然今日大内衆自後山取向テ責之間被責落了、立籠衆狛下司、普賢寺中、下狛大北、田那部別所四人先被打之由、古市へ告来云々」とあり、東軍方山城国人衆のこもる「椿井新城」が西軍方大内勢による攻撃によって落城したことがわかる。「大乗院寺社雑事記」同一七年一〇月一四日条は、東西両軍南山城対陣に際して「右衛門佐方之城共」の一つとして「
椿井城跡
つばいじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報