日本歴史地名大系 「楠本村」の解説 楠本村くすもとむら 和歌山県:有田郡清水町楠本村[現在地名]清水町楠本大谷(おおたに)・二川(ふたかわ)・日物川(ひものがわ)三村の北方、有田川の支流江竜(えりゆう)川筋にあり、生石(おいし)ヶ峰・堂鳴海(どうなるみ)山を結ぶ長峰(ながみね)山脈の南側の谷間に立地。集落は六つに分れ、小名として嵯峨(さが)・菖蒲(しようぶ)・柵(しがらみ)・北番(きたばん)・江竜川・西原(にしはら)があり、「続風土記」に「小谷甚多くして、人家方五十町の内に散在す」とある。慶長検地高目録によれば村高四八〇石余、小物成一石二合。享保九年(一七二四)の楠本村御毛見町積指出シ帳(堀江家文書)では家数一一二で内訳は庄屋一・本役四四・半役二五・無役四二、人数六四一(男三四〇・女三〇一)、馬一、牛三四。 楠本村くすもとむら 和歌山県:和歌山市河北地区楠本村[現在地名]和歌山市楠本名草(なくさ)郡に属し、島(しま)村の東にある。村域は平野で六(ろつ)ヶ井(い)用水の一流が通り、農業に適している。南部を東西に大坂街道が通る。古代から中世にかけて周辺一帯は川辺(かわなべ)と称されたと思われる。当地は川辺の中(なか)村とよばれたと伝え(続風土記)、「吉記」承安四年(一一七四)九月二四日条に熊野詣の途次、「於中村昼食」とあるのは当地と考えられる。また大坂街道の北にある字三宝(さんぼう)は、永承三年(一〇四八)名草郡郡許院収納米帳(九条家本「延喜式」巻八裏文書)にみえる「三宝村」にあたると推定され、当地一帯は名草郡四院の一つ郡許(ぐんこ)院に含まれたと考えられる。 楠本村くすもとむら 兵庫県:津名郡東浦町楠本村[現在地名]東浦町楠本、淡路(あわじ)町楠本岩屋(いわや)浦(現淡路町)の南にあり、東は海(大阪湾)を望む。西に山並が迫り、南部を東へ流下する楠本川・立石(たていし)川の河口辺りのなだらかな傾斜地に農地が広がる。北部別所(べつしよ)地区との間に篝場(かがりば)山がある。海沿いを岩屋街道が北東から南西へと延び、浦(うら)村へと続く。村名は、建武二年(一三三五)の湊川の戦に敗れた楠木正成の残党がこの地に落延びたことによると伝えられる。正保国絵図に村名がみえ、高二七八石余。天保郷帳では高七三五石余。来馬組に属した。寛政二年(一七九〇)の家数八五・人数三九三、船数二、牛七五・馬二八(「来馬組家数人数等相約帳」正井家文書)。「味地草」では家数一四八。反別戸数取調書では反別五五町九反余、高七七四石余ですべて蔵入地。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by