楢林宗建
ならばやしそうけん
(1802―1852)
蘭方(らんぽう)医。佐賀藩医楢林栄哲(高連)の二男。栄建の弟。長崎大村町の佐賀藩医役宅に生まれる。名は潜、通称竜馬。字(あざな)は孔昭、号は和山・得生軒。諱(いみな)は高房。初めオランダ通詞であったが、シーボルトが商館医として来日した当初、楢林家において一般患者の診療や日本人への医学教授を行うことが許されたこともあり、兄とともにその影響を受け医学を目ざした。シーボルトが鳴滝(なるたき)塾を開くと入門、逸材とうたわれた。1827年(文政10)佐賀藩医。1840年(天保11)勝山町へ移り、兄栄建が京都へ移ったあと家督を相続し、佐賀鍋島(なべしま)侯御側医(おそばい)格となり、同侯に海外事情を伝えた。1847年(弘化4)藩主鍋島直正(なおまさ)(閑叟(かんそう))の命を受け商館医モーニケと相談、牛痘痂皮(かひ)をジャワから取り寄せ、1849年(嘉永2)息子建三郎ほか2児に接種して成功、漸次広めた。日本での種痘の始めである。豊後町に医塾大成館を開設。著作に『牛痘小考』『楢林煉膏』『得生軒宝函』がある。
[末中哲夫]
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楢林宗建 (ならばやしそうけん)
生没年:1802-52(享和2-嘉永5)
江戸後期の蘭方医。佐賀藩医楢林栄哲(崍山,高連)の次男として長崎に生まれる。名は潜,諱(いみな)は高房,字は孔昭,通称は竜馬。和山,得生軒とも号した。1823年(文政6)来日のP.F.vonシーボルトのために長崎市中の診療施設として大村町の楢林医塾を提供し,兄栄建らとともに臨床教育に参加,シーボルトに師事した。27年3月家督を相続し,永代長崎居住の佐賀藩医となり,藩のために海外事情収集の役割も担った。かねてシーボルトから学んだ牛痘接種法を実施するために尽力し,48年(嘉永1)来日のモーニケOtto G.J.Mohnikeにはかって海外から牛痘痂を取り寄せ,翌年それに成功し全国に普及する道を開いた。著書に《牛痘小考》《楢林煉膏書》ほかがある。
執筆者:宗田 一
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楢林宗建
ならばやしそうけん
[生]享和2(1802).3.18. 佐賀
[没]嘉永5(1852).10.6.
江戸時代末期の蘭方医。楢林流外科5世,日本にジェンナー式の種痘を普及させるために大いに貢献した人。佐賀藩医の業を継ぎ,文政7 (1824) 年 P.シーボルトに学んだ。弘化1 (44) 年長崎出島のオランダ館に出入りを許され,医書のほか,兵法,航海,鋳砲などの書を手に入れて上納した。同4年藩内に痘瘡が流行したとき,藩主に牛痘苗の輸入を進言し,嘉永1 (48) 年入港したオランダ船に積載させた。そしてこのときに来日したオランダの医師 O.モーニケに種痘法を学んだ。この牛痘苗は変質していて不成功に終ったが,翌年,痘痂をバタビアから取寄せ,ようやく接種に成功した。
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楢林宗建 ならばやし-そうけん
1802-1852 江戸時代後期の蘭方医。
享和2年2月7日生まれ。文政6年兄楢林栄建とともにシーボルトに師事。10年佐賀藩医となる。藩主鍋島閑叟(かんそう)の命をうけ,嘉永(かえい)2年モーニッケと協力し牛痘接種をおこなった。嘉永5年10月6日死去。51歳。肥前大村(長崎県)出身。名は潜。字(あざな)は孔昭。号は和山,得生軒。著作に「牛痘小考」「得生軒方函」など。
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楢林宗建 (ならばやしそうけん)
生年月日:1802年3月18日
江戸時代末期の蘭方医
1852年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の楢林宗建の言及
【医学】より
…1820年ころからは長崎で何度か試みられたが成功しなかった。牛痘苗を入手するためにも種々の工作がなされたが,49年(嘉永2)になってジャワから到着した痘苗を,長崎に住んでいた佐賀藩の藩医楢林宗建が息子に接種して成功し,それを各地の蘭方医たちがリレーで接種し,全国へ広げていった。江戸における拠点は神田お玉ヶ池の[種痘所]で,江戸在住の蘭方医82人の拠金によって58年に開設された。…
※「楢林宗建」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」