東本庄村(読み)ひがしほんじようむら

日本歴史地名大系 「東本庄村」の解説

東本庄村
ひがしほんじようむら

[現在地名]南部川村東本庄

南部川左岸にある大村。南は谷口たにぐち村・山田やまだ村、西は西本庄村。村内をほぼ南北に南部竜神街道が通る。古代の条里制の遺名と思われるみや前坪まえつぼ地名がある。安元三年(一一七七)六月二二日の春日局消息(宝簡集)にみえる「みなへの本さう」は当地と西本庄村とにあたるといわれ、「続風土記」も「本庄の名南部庄の本庄なるへし、本村の北十二町に谷あり、小名辺川其谷口にあり、辺川の東十八町谷の源に受領あり」と記す。


東本庄村
ひがしほんじようむら

[現在地名]播磨町本荘ほんじよう・本荘一―二丁目・宮北みやきた一―三丁目

西本庄村の南東に位置し、東部喜瀬きせ川が南流する。本庄村が寛文年間(一六六一―七三)に分立して成立。元禄郷帳に「古ハ本庄村」と肩書された東本庄村がみえ、高四三二石余。天保郷帳では高五五九石余。宝暦一二年(一七六二)の古宮組畝高・諸運上・小物成控(大歳家文書)によると人数一千五八七、商船一七(うち渡海船四)・漁船一一五があり、浦方水主役一〇・三人、浦方水主米一三石六斗余、魚問屋運上三〇匁・漁師運上三匁(一五匁は七月納、一八匁は一一月納)


東本庄村
ひがしほんじようむら

[現在地名]大野町本庄ほんじよう

下有里しもありさと村の北西揖斐川左岸に立地する。平安期末より延暦寺領の平野ひらの庄の内として推移したと考えられ、永享一一年(一四三九)一〇月二一日のいたや四郎売券(龍徳寺文書)で「東本庄いけた」を含む一段余が龍徳りようとく(現池田町)に売渡されている。慶長郷帳に東本庄村とみえ、高二九一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では大垣藩領。


東本庄村
ひがしほんじようむら

[現在地名]篠山市東本荘ひがしほんじよう

西本庄村の東に位置し、南を篠山川が流れる。南部の中谷なかたにに戦国期に荒木氏綱が用いた城・館の跡があり、城山じようやまなどの地名が残る。「丹波志」では草上くさのかみ(村雲庄)のうち東本庄とみえ、高三四一石余。また洞光とうこう寺八石余と記される。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では泉組で、家数六五・人数二八二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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