橘旭翁(読み)たちばなきょくおう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘旭翁」の意味・わかりやすい解説

橘旭翁
たちばなきょくおう

筑前(ちくぜん)琵琶(びわ)の演奏家

[シルヴァン・ギニアール]

初世

(1848―1919)筑前琵琶創始者。本名智定(ちじょう)。博多(はかた)の盲僧(もうそう)琵琶の家に生まれ、13歳から撥(ばち)を握る。42歳のとき薩摩(さつま)琵琶研究のため鹿児島に半年間滞在、帰郷後、盲僧琵琶の楽器・奏法・歌詞を改良した。琵琶楽の全国的流行に伴い、1898年(明治31)上京、宮家などの御前演奏で名をあげた。1901年(明治34)旭翁と改め、筑前琵琶橘流の名称を用い、門弟には「旭」の字を冠した号を与えた。10年には娘婿の旭宗(きょくそう)、2世旭翁とともに五弦琵琶創案。『石童丸(いしどうまる)』『扇(おうぎ)の的(まと)』『湖水渡(こすいわたり)』など多くの作曲を残す。

[シルヴァン・ギニアール]

2世

(1874―1945)本名一定。初世の実子。父の没後2世を継ぎ、『高松城』『安宅(あたか)の関』など多数を作曲。

[シルヴァン・ギニアール]

3世

(1902―71)本名定友。2世の実子。父の引退(1940)とともに3世を襲名。第二次世界大戦後の琵琶楽の衰退を憂え、歌謡曲風新作や合奏曲などで普及に努めた。そのため、古風を守る旭宗(1967没)とあわず、橘流は3世を宗家とする旭(あさひ)会と、旭宗を宗家とする橘会の二派に分裂した。

[シルヴァン・ギニアール]

4世

(1938― )本名定利。3世の実子。1972年(昭和47)3月4世を襲名。

[シルヴァン・ギニアール]

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改訂新版 世界大百科事典 「橘旭翁」の意味・わかりやすい解説

橘旭翁 (たちばなきょくおう)

筑前琵琶橘流の宗家,旭会(あさひかい)会長。(1)初世(1848-1919・嘉永1-大正8) 旭翁の名は1911年より。本名智定(ちじよう)。博多の盲僧として荒神こうじん)琵琶に携わっていた。40歳代で鹿児島を半年間訪れて,あこがれの薩摩琵琶を習い,帰郷後楽器の改作,新様式の作品創作,楽譜作成を試みた。この音楽的革新の骨子は,宗教性からの脱却,三味線音楽への接近であったので,結果として優雅にうたう旋律の型がつくられた。智定は,同地,同時代の鶴崎賢定吉田竹子とならんで筑前琵琶の創始者の一人とされている。50歳ころ以後は東京に居を構え,筑前琵琶の全国的な普及に努めた。(2)2世(1874-1945・明治7-昭和20) 1918年襲名。本名一定。初世の実子。妹婿の橘旭宗(本名知定)とともに創作,演奏に活躍して筑前琵琶をますます世に広めた。この2人は近代的な5絃の琵琶も考案したが,旭宗は橘会を結成して分離した。(3)3世(1902-71・明治35-昭和46) 1940年襲名。本名定友。2世の実子。伝統音楽不人気の傾向を反省して,親しみやすい旋律,他楽器との合奏,舞踊曲などにくふうをこらした。(4)4世(1938(昭和13)- ) 1972年襲名。本名定利。3世の実子。
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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「橘旭翁」の解説

橘 旭翁(初代)
タチバナ キョクオウ


職業
筑前琵琶奏者

肩書
橘流宗家

本名
橘 智定(タチバナ チジョウ)

旧名・旧姓
一丸

別名
幼名=鹿太郎,前名=橘 旭桜(タチバナ キョクオウ)

生年月日
嘉永1年 10月10日

出生地
筑前国博多(福岡県 福岡市)

経歴
荒神琵琶の家系で盲僧琵琶妙福坊の子。安政2年祖父の名を継ぎ、智定と改名。13歳頃から琵琶を学び、明治20年琵琶楽の改良に着手。薩摩琵琶の研究、楽器の改造をすすめ、吉田竹子、鶴崎霞外らと筑前琵琶の創成に尽力した。26年橘に改姓。31年に上京し、小松宮、皇后陛下などの御前演奏を実現、旭桜と号す。34年より旭翁と号して、橘流琵琶宗家を創始。43年五弦琵琶を考案。大正7年に長男の一定に宗家を譲った。代表作に「湖水渡」「川中島」「小督」などがある。

没年月日
大正8年 8月28日 (1919年)

家族
長男=橘 旭翁(2代目)


橘 旭翁(2代目)
タチバナ キョクオウ


職業
筑前琵琶奏者

肩書
橘流宗家

本名
橘 一定

生年月日
明治7年 10月6日

出生地
福岡県

学歴
法政大学卒

経歴
幼少から父について琵琶を学び、父の没後に2代目旭翁を襲名。妹婿の旭宗と協力して五弦琵琶を考案、その普及に尽力した。昭和15年引退して、実子の定友に宗家を譲った。代表作に「橘中佐」「銀杏の樹蔭」「高松城」「五条橋」など。

没年月日
昭和20年 7月25日 (1945年)

家族
父=橘 旭翁(初代),息子=橘 旭翁(3代目)


橘 旭翁(3代目)
タチバナ キョクオウ


職業
筑前琵琶奏者

肩書
橘流宗家

本名
橘 定友

生年月日
明治35年 11月11日

出生地
東京

学歴
明治大学法学部卒

経歴
幼少から父の2代目旭翁について、筑前琵琶を学ぶ。昭和15年、父の引退に伴い、3代目を襲名。舞踊曲、他楽器との合奏曲などを発表、琵琶楽の普及に努めた。主要作品に「綱館」「舞曲ト短調」など。

没年月日
昭和46年 11月29日 (1971年)

家族
父=橘 旭翁(2代目),息子=橘 旭翁(4代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「橘旭翁」の解説

橘 旭翁(1代目)
タチバナ キョクオウ

明治・大正期の筑前琵琶奏者 橘流宗家。



生年
嘉永1年10月10日(1848年)

没年
大正8(1919)年8月28日

出生地
筑前国博多(福岡県福岡市)

本名
橘 智定(タチバナ チジョウ)

旧姓(旧名)
一丸

別名
幼名=鹿太郎,前名=橘 旭桜(タチバナ キョクオウ)

経歴
荒神琵琶の家系で盲僧琵琶妙福坊の子。安政2年祖父の名を継ぎ、智定と改名。13歳頃から琵琶を学び、明治20年琵琶楽の改良に着手。薩摩琵琶の研究、楽器の改造をすすめ、吉田竹子、鶴崎霞外らと筑前琵琶の創成に尽力した。26年橘に改姓。31年に上京し、小松宮、皇后陛下などの御前演奏を実現、旭桜と号す。34年より旭翁と号して、橘流琵琶宗家を創始。43年五弦琵琶を考案。大正7年に長男の一定に宗家を譲った。代表作に「湖水渡」「川中島」「小督」などがある。


橘 旭翁(2代目)
タチバナ キョクオウ

明治〜昭和期の筑前琵琶奏者 橘流宗家。



生年
明治7年10月6日(1874年)

没年
昭和20(1945)年7月25日

出生地
福岡県

本名
橘 一定

学歴〔年〕
法政大学卒

経歴
幼少から父について琵琶を学び、父の没後に2代目旭翁を襲名。妹婿の旭宗と協力して五弦琵琶を考案、その普及に尽力した。昭和15年引退して、実子の定友に宗家を譲った。代表作に「橘中佐」「銀杏の樹蔭」「高松城」「五条橋」など。


橘 旭翁(3代目)
タチバナ キョクオウ

大正・昭和期の筑前琵琶奏者 橘流宗家。



生年
明治35(1902)年11月11日

没年
昭和46(1971)年11月29日

出生地
東京

本名
橘 定友

学歴〔年〕
明治大学法学部卒

経歴
幼少から父の2代目旭翁について、筑前琵琶を学ぶ。昭和15年、父の引退に伴い、3代目を襲名。舞踊曲、他楽器との合奏曲などを発表、琵琶楽の普及に努めた。主要作品に「綱館」「舞曲ト短調」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「橘旭翁」の解説

橘旭翁(初代)

没年:大正8.8.28(1919)
生年:嘉永1(1848)
明治大正期の鶴崎賢定,吉田竹子とならぶ筑前琵琶の創始者のひとり。本名は智定,旭翁の名は明治44(1911)年から。博多の晴眼の盲僧として荒神琵琶に携わっていた。40歳のとき鹿児島に半年滞在し,あこがれていた薩摩琵琶を習い,帰郷後は筑前盲僧琵琶を基本に独自に楽器の改作,新様式の作品創作,楽譜作成を試みた。この音楽的革新の骨子は,宗教性からの脱却,三味線音楽への接近であったので,結果として優雅に歌う旋律型が多数作られ,また女性の琵琶音楽家育成にも努めた。50歳ごろからは東京に居を構え,筑前琵琶の全国普及に貢献した。主な作品に「石童丸」「扇の的」「小栗須」「菅公」「小督」「湖水渡」がある。 2代目旭翁は初代の子。本名一定。妹婿の初代橘旭宗と共に近代的な5弦の琵琶を考案した。3代目旭翁は2代目の子。本名定友。4代目旭翁は3代目の子。本名定利。<参考文献>芝成里・大坪草二郎『初代橘旭翁伝』(『筑前琵琶物語』として再刊,1983)

(山口修)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘旭翁」の解説

橘旭翁(初代) たちばな-きょくおう

1848-1919 明治-大正時代の琵琶(びわ)演奏家。
嘉永(かえい)元年10月10日生まれ。琵琶法師の父にまなび,鹿児島で薩摩(さつま)琵琶を研究し,楽器奏法を改良。東京にうつって明治34年旭翁を名のり,のち旭会を結成し,筑前(ちくぜん)琵琶の普及につとめた。鶴崎賢定,吉田竹子とならんで筑前琵琶の創始者のひとりとされる。大正8年8月28日死去。72歳。筑前(福岡県)出身。本名は智定。

橘旭翁(3代) たちばな-きょくおう

1902-1971 大正-昭和時代の琵琶(びわ)演奏家。
明治35年11月11日生まれ。2代橘旭翁の子。父の引退にともない3代を襲名。第二次大戦後の琵琶楽の衰退をとめようとして,歌謡曲風の新作や他楽器との合奏をこころみた。昭和46年11月29日死去。69歳。東京出身。明大卒。本名は定友。

橘旭翁(2代) たちばな-きょくおう

1874-1945 明治-昭和時代前期の琵琶(びわ)演奏家。
明治7年10月6日生まれ。初代橘旭翁の子。父の没後2代をつぐ。妹婿の橘旭宗とともに五弦琵琶を完成させた。「高松城」「安宅の関」などを作曲。昭和20年7月25日死去。72歳。福岡県出身。本名は一定。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘旭翁」の意味・わかりやすい解説

橘旭翁(1世)
たちばなきょくおう[いっせい]

[生]嘉永1(1848)
[没]1919
筑前琵琶橘流の宗家。本名智定。博多の盲僧琵琶が衰退の途にあったため,吉田竹子,鶴崎賢定とともに薩摩琵琶などを研究して新しい筑前琵琶を創始した。 1898年上京して流派の発展をはかり,旭会を創立。

橘旭翁(3世)
たちばなきょくおう[さんせい]

[生]1902
[没]1971
筑前琵琶橘流の宗家。本名定友。2世の実子。舞踊曲としての琵琶合奏曲を作曲したり,洋楽的な面も取入れるなど新しい試みを行なった。

橘旭翁(2世)
たちばなきょくおう[にせい]

[生]1874
[没]1945
筑前琵琶橘流の宗家。本名一定。1世の実子。旭宗 (橘会宗家) とともに五弦琵琶を考案,その普及に努めた。

橘旭翁(4世)
たちばなきょくおう[よんせい]

[生]1938.3.17.
筑前琵琶橘流の宗家。本名定利。3世の実子。 1972年4世を襲名。

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367日誕生日大事典 「橘旭翁」の解説

橘 旭翁(初代) (たちばな きょくおう)

生年月日:1848年10月10日
明治時代;大正時代の筑前琵琶演奏家
1919年没

橘 旭翁(2代目) (たちばな きょくおう)

生年月日:1874年10月6日
明治時代-昭和時代の筑前琵琶奏者
1945年没

橘 旭翁(3代目) (たちばな きょくおう)

生年月日:1902年11月11日
大正時代;昭和時代の琵琶演奏家
1971年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の橘旭翁の言及

【琵琶】より

…さらに新しく錦心流の中から水藤錦穣(すいとうきんじよう)が錦(にしき)琵琶を,鶴田錦史(1911‐95)が鶴田派の新様式をつくり出した。(4)筑前琵琶 琵琶歌のもう一つの系統筑前琵琶はもと筑前盲僧の橘旭翁らにより薩摩琵琶や三味線音楽にならって明治期に確立され,女性的な優雅さをたたえた音楽として全国的に流行した。とくに石村涼月高峰筑風らの独特の味わいが人気を呼んだ。…

※「橘旭翁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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