語の正しい書き方,またはある言語を書き表す正しい書き方の体系。正字法ともいう。ここで〈正しい〉とは,〈社会的に規範として認められている〉の意味である。オーソグラフィーorthographyの訳語で,orthographyは,ギリシア語のortho(正しい)+graphia(書き方)に由来する。欧米では主として正しいつづり字法・綴字(てつじ)/(ていじ)法(スペリング)のことをいう。日本では,〈正字法〉から憶測して漢字の一点一画の正しい書き方と考える人もいるが,それは適当ではない。仮名だけで書くときの仮名遣いの基準,ローマ字だけで書くときのローマ字のつづり方,および分かち書きの基準のことと考えるのが適当である。しかし,最近では,その範囲を広げて,ある語またはその部分を漢字で書くか,仮名で書くか,どの漢字を使うかなどの基準も含めて考えるようになった。〈表記法基準〉〈標準表記法〉というのと変わらない。
正書法の条件は次のとおりである。(1)語の書き方が一定していること。イングランドでは15世紀まで同じ語が人の好みでいろいろにつづられていたのが,印刷術の導入によって〈同じ語は同じつづりで〉書かれるようになった。《万葉集》では〈山〉が〈也末,八万,夜麻,野麻,山〉のように5通りに書かれているから,万葉仮名には正書法的特徴は認められない。(2)一般大衆の使うものであること。印刷術の普及,教育の一般化,マスコミの発達に伴って正書法が問題にされたのもこのためである。(3)権威のある規範が辞書の形になっていること。イギリスでは,S.ジョンソンの辞書(《英語辞典The Dictionary of the English Language》1755)が,ドイツでは,ドゥーデンの辞書(《大ドゥーデンDer grosse Duden:Rechtschreibung der deutschen Sprache und der Fremdwörter》1934)が,アメリカでは,N.ウェブスターの辞書(《ウェブスター新国際英語辞典Webster's New International Dictionary of American Language》第2版,1934)がつづり字統一の権威ある規範となった。
正書法の理想は,音と字との間に1対1の対応関係があることであるが,現実の正書法ではこの対応関係がくずれているのが普通である。英語においても,ある時代には1対1の対応関係があったが,時代がたつにつれて音声が変化したために理想から遠い正書法となった。aの字が[æ](例,cat),[ei](例,cake),[ɑː](例,father),[ɔ](例,want),[ɔː](例,water),[e](例,many),[ə](例,about),[i](例,orange)のように8種の母音に対応する。正書法が問題になるのは,対応関係を正す必要が,印刷,教育,マスコミ,公用文などの分野で起こるときや,外来語のつづり字の混乱を収めようというときである。言語は絶えず音声変化をしており,また外来語の流入をくいとめることはできないのだから,正書法の問題は絶えず起こるはずのものである。ドイツでは,正書法の基準を定めるために,1876年(第1回)と1901年(第2回)に正書法会議を開いている。
日本では,明治以来いわゆる〈歴史的仮名遣い〉が正書法として行われてきたが,1946年に〈現代かなづかい〉がこれに代わった。〈ゐる(居)〉と〈いる(要)〉を〈いる〉に統一し,〈おほさか(大阪)〉と〈おほり(堀)〉を〈おおさか〉と〈おほり〉のように区別することになった点では正書法の理想に近づいたが,一方,同じ[oː]を〈おお(さか)〉,〈おう(さま)〉のように書き分ける点では,〈現代かなづかい〉も正書法の理想から遠い。どういう漢字で書くかについては,常用漢字表,同音訓表という目安があり,どの部分を漢字で書くかについては,〈改定送り仮名の付け方〉という目安があるが,1語1語の書き表し方については目安のつかない場合がある(例,十分/充分,付属/附属,祭/祭り/まつり)。現代の日本人の平均的表記意識は〈同じ語もいろいろに書ける,書かれる〉ということにある。初期のワープロがいちいち漢字か仮名か字種を選定(指定)するようにつくられていたのもこの表記意識の反映である。また,国語審議会の〈正書法について〉という報告(1956年7月5日)が反発を招いて,当用漢字表以下の見直しを迫られるにいたったのもそのためと考えられる。しかし,現代では,《万葉集》で5通りに書かれた〈山〉が〈山〉一つに定着しつつある。助詞の〈まで〉はもう漢字で書かれることはほとんどなくなった。こうして正書法の理想に徐々に近づこうとしているように見受けられる。
→仮名遣い →国語国字問題
執筆者:柴田 武
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orthographyの訳語。正字法ともいう。語の正しい書き表し方、つまり音声言語を文字言語にうつしかえるための、社会的規範として認定されている決まりをいう。「おおい(多い)」と「おうい(王位)」のように、同音の語を二様に書き分けるのは音韻論では無意味であるが、現代仮名遣いという社会的規範によって標準と定められている。英語でも、knight[nait]は音韻と対応するつづり字(スペリング)ではないが、正しい書き表し方として社会的に認定されている。このように、音韻と文字との正確な対応は文字言語にうつす場合にかならずしも要らない。表音文字しかもたない言語では、ただ一つの書き表し方しかないが、日本語には文字体系として漢字、平仮名、片仮名、ローマ字の4種類があって、どの文字で語を書き表すか決まってはいない。社会的慣習として、外来語は片仮名、漢語は漢字、和語は平仮名もしくは一定の範囲内の漢字で書き表すことがかなり定着しているが、従うべき規則というものではない。規則性という点で、送り仮名のつけ方を正書法とする立場もある。ただ、文字体系を一つしかもたない言語と対比して考えると、日本語ではその文字体系ごとに書き表し方が一つに限定されていればよいということができる。その場合、漢字という文字体系は、一次的には音声言語をうつしかえることはできないから、音(音節)を表記する仮名、ローマ字の使い方こそが社会的規範を第一義的に必要とする。なかでも、仮名はローマ字に比べて、現代日本社会における重要性がはるかに高い。したがって、現実の言語生活に即していえば、現代仮名遣いが社会的規範たるべき正書法に該当することとなろう。平仮名と片仮名、仮名と漢字といった文字体系間の書き換えは、現代仮名遣いを基盤とした二次的な決まりであって、送り仮名のつけ方は、仮名・漢字変換における付帯的規則に相当すると考えられる。
[沖森卓也]
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…ルターは聖書翻訳の際の語形など言語の外形を,当時ウィーンの皇帝庁と並んで有力であった,自己の出身地に近いザクセン地方のマイセンの官庁語に従わせるが,マイセンの官庁が存在するドイツ東中部地方の東中部ドイツ語の特徴をもったルターのドイツ語は,ドイツ西部,北ドイツの低地ドイツ語地域にも広まり,のちの統一されたドイツ文語の基礎となった(もっとも,バイエルンを中心とするカトリック地域のドイツ東南部の通用語とルターのドイツ語との言語的競合はしばらく続くことになる)。ルターは1522年以降も数回にわたって新・旧約聖書の改訂版を出すが,ルターのドイツ語は,とくに語の形態と正書法においてはいまだ規範をもたず,確固としたものではなかった。そこで16世紀以来多くの文法家たちがドイツ語の規範化に努めるが,その中でもとくに,17世紀中ごろ,ショッテルGeorg Schottelは一連のドイツ文法に関する著作において,それ以前には見られないほどに,ドイツ文法の体系化・規範化を行い,ここにドイツ語は初めて確固とした規範をもつことになった。…
…明治時代に行われた言文一致の運動はこのような音声言語と文字言語との間の差をちぢめようとしたものである。また,言語音とその表記法との間にずれが生ずると〈正書法orthography〉あるいは〈かなづかい〉の問題が生じ,さらに綴り字・かなづかいの改訂が要求されるようになる。この改革は大きな障害にぶつかるのが普通である。…
※「正書法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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