日本歴史地名大系 「歩行町」の解説 歩行町おかちまち 岐阜県:大垣市大垣城下歩行町[現在地名]大垣市歩行町大垣城の北東に位置する士屋敷地域。西は岐阜町、南は伝馬(てんま)町。もと高橋(たかはし)村のうちで、寛永―元禄期(一六二四―一七〇四)に侍町となったとされ、町名は馬に乗れない身分の侍の居住地であったことによる(新修大垣市史)。寛永城下絵図には東西に延びる伝馬町通から北に入る脇道に歩行町通と記され、享保城下絵図には歩行町とみえる。享和四年(一八〇四)の藩士家並帳(林文書)には七軒(しちけん)町・御歩行町中ノ町・同西町とあり、美濃路見取絵図では伝馬町西部で北に入る脇道の東に「七軒町入口」、西に「歩行町入口」と記され、当町の東に七軒町があったことが知られる。元禄期の家数は当町八六・七軒町二八、享和四年の家数は当町七九・七軒町三二、文化九年(一八一二)三月の岐阜町大火により当町は焼失(新修大垣市史)。 歩行町かちまち 愛媛県:松山市松山城下歩行町[現在地名]松山市歩行町一―二丁目・一番(いちばん)町二丁目松山城下町の東部の町。小唐人(ことうじん)町・東雲(しののめ)町・御宝(みたから)町に囲まれた地域内にある縦・横の町筋。東は持田(もちだ)村、西は小唐人町、南は鮒屋(ふなや)町、北は喜与(きよ)町・東雲町に接する。徒士(下級武士)が居住したので、この町名が生れたと考えられる。徒士町とも書いた。松山藩家老竹内信英(幕末―明治前期の人)の記録である「垂憲録拾遺」によると、歩行町の「町並も広狭あり見苦敷」かったので、寛文三年(一六六三)に藩庁は竹木を提供し、さらに銀五貫文を給与して「見分繕」すなわち道路の整備をさせている。 歩行町かちまち 秋田県:仙北郡角館町角館城下歩行町[現在地名]角館町歩行(おかち)町内町の一つで、南は小人(こびと)町、東は表(おもて)町、西の善福(ぜんぷく)寺と屋敷の裏は檜木内(ひのきない)川から取水した内(うち)川がある。北は川原(かわら)町であるが、町割初期は川原町も含めて御徒(おかち)町とよんだ。西から檜木内川を渡って城下町に入る最初の町で、歩行層の屋敷が並ぶ。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by