毛呂郷
もろごう
中世の結城郡西端部に位置。現在の北南茂呂・東茂呂およびその北縁部若干を含む。北南茂呂にほぼ相当する部分が西毛呂郷と称され、それはさらに北毛呂・南毛呂とによって構成されていた。多くは「毛呂」と記されるが、「茂呂」と書かれることもあり、時代が下るにつれて「茂呂」が多くなる。元亨元年(一三二一)八月、山川貞重は相伝の所領の一部であった毛呂郷を現横浜市の称名寺に寄進している。その時の寄進状案(金沢文庫文書)に
<資料は省略されています>
と四至が記され、貞重が寄進したのは西毛呂郷であったことがわかる。貞重の寄進の四ヵ月前、称名寺の僧定祐・定覚は西毛呂郷の検注を実施している。それによれば、当時西毛呂郷には在家三四宇(給主屋敷一を含む)、田二七町三段大(畑一町一段を含む)があり、所当(正税)高は三〇三貫五〇〇文(同文書)。
毛呂郷
もろごう
入間川支流越辺川上流域の毛呂台地上、現毛呂山町毛呂本郷を中心とする地域に比定される。茂呂とも書かれた。鎌倉幕府の御家人であった藤原姓毛呂氏の本領であったとみられる。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一二月一二日条に「毛呂冠者秀光」とみえ源頼朝が鎌倉大倉郷に新造した御所へ移る際、騎乗した頼朝の右方に供奉している。以後、季光は文治四年(一一八八)の鎌倉鶴岡八幡宮大般若経供養、同五年の奥州藤原氏攻め、建久元年(一一九〇)の頼朝上洛、同六年の奈良東大寺落慶供養などに供奉している。毛呂太郎季光は大宰権帥藤原季仲の孫で、文治二年頼朝から関東御分国の一つである豊後国の国司に推挙され(二月二日条)、やがて豊後守となっており(六月一日条)、建久五年には御願寺のうち鎌倉永福寺薬師堂の奉行人を勤めるなど(一二月二日条)、将軍家の門葉(一族)に準じる扱いを受けていた(建久六年正月八日条)。季光の兄弟か子と思われる毛呂季綱は、建久四年二月一〇日泉(現滑川町)・勝田(現嵐山町)を与えられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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