日本大百科全書(ニッポニカ) 「民党・吏党」の意味・わかりやすい解説
民党・吏党
みんとうりとう
藩閥政府に対抗した政党と政府党に対して第一議会から日清(にっしん)戦争開戦前まで行われた呼称。後者は官権党ともよばれた。1890年(明治23)7月第1回総選挙を期して藩閥政府に反対する諸政派統一の試みが行われたが成功せず、9月立憲改進党を除く諸派が立憲自由党を結成、11月からの第一議会ではこの両党が民党の中心となった。それに対して大成会と国民自由党などが吏党とされ、民党側は予算案を大削減して政府を窮地に追い込んだ。第一議会では自由党土佐派の「裏切り」で衆議院の解散は回避されたが、第二議会は解散となった。第2回の総選挙は政府が激しい選挙干渉を行い民党の選挙活動を妨害したが、依然として民党側が多数を占めた。他方、政府の全面的支援により当選した政府派議員は中央交渉部を結成、第三議会後に中立議員有志をあわせて国民協会を組織し、強力な政府党となった。しかし、第四議会を契機に自由党が第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣に接近して民党戦線は分裂、改進党は国権派的姿勢を強め、国民協会などとともに政府の条約改正交渉を攻撃、ここに民党のスローガンであった「民力休養・政費節減」の政治姿勢は大きく後退した。日清戦争では各政党とも戦争を支持し、挙国一致の形態をとった。日清戦後には自由党や、改進党の後身である進歩党が相次いで藩閥官僚と提携、党首的存在である板垣退助(いたがきたいすけ)や大隈重信(おおくましげのぶ)が入閣するに至って民党的体質は変質し、民党・吏党の区別は意味を失った。
[宇野俊一]