海軍軍人、軍事評論家。愛媛県生まれ。1898年(明治31)海軍兵学校卒業。日露戦争では水雷艇長として従軍、旅順方面の作戦、日本海海戦に参加。戦後、海軍軍令部で戦史編纂(へんさん)に従事。余暇に書いた日本海海戦記『此(この)一戦』を1911年(明治44)に刊行、一躍文名をあげた。1918年(大正7)海軍大佐に進級。翌1919年からヨーロッパに留学、第一次世界大戦後の戦跡を巡歴し、戦争の惨禍に触れて思想的転換を生じ反戦平和思想を抱く。1921年新聞への寄稿記事が原因で謹慎処分を受け、同年退役。以後、軍国主義批判・平和主義にたつ評論家として活躍、統帥権の独立を憲法違反と断じ、太平洋戦争の帰結をいち早く予測し日米非戦論を唱え続けた。論文はしばしば発禁処分にあい、1938年(昭和13)以後は事実上執筆禁止状態にあった。昭和20年10月疎開先で急死。
[北河賢三]
『松下芳男著『水野広徳』(1950・四州社)』▽『家永三郎編『現代日本思想大系3 民主主義』(1965・筑摩書房)』▽『水野広徳著作刊行会編『反骨の人・水野広徳』(1978・経済往来社)』
明治〜昭和期の軍事評論家,海軍大佐
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
海軍軍人,軍事評論家。愛媛県出身。海軍兵学校卒。水雷艇の艇長として日露戦争に従軍し,戦後軍令部出仕となり,日露海戦史編纂に従事。1911年日本海海戦を描いた《此一戦》を著し,ベストセラーとなる。17年大佐となるが,21年〈軍人心理〉を新聞に寄稿し,謹慎処分を受け,現役を引退した。以後軍縮運動に身を投じ,日米不戦論,軍部大臣現役武官制廃止などで健筆をふるい,さらに統帥権独立憲法違反論を主張するなど,厳しい当局の監視下にあって平和主義的軍事評論家としての姿勢を貫いた。敗戦後まもなく病没。著書に《次の一戦》《無産階級と国防問題》《軍政改革論》がある。
執筆者:粟屋 憲太郎
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