水野村(読み)みずのむら

日本歴史地名大系 「水野村」の解説

水野村
みずのむら

[現在地名]柿崎町水野

よね山南麓に位置し、西にまき村、南に猿毛さるげ村がある。当村から米山頂上を越えて鯨波くじらなみ(現柏崎市)に出る道(米山峰越)があり、柿崎村と鯨波村を結ぶ谷根たんね通の途中、小萱おがや村から当村を経て黒岩くろいわ村に出る枝道もある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分水野村 下」とみえ、本納三〇石一斗・縄高六九石七斗八合七勺、家九軒・二四人とある。


水野村
みずのむら

[現在地名]狭山市水野

南入曾みなみいりそ村の南にあり、東は堀金ほりかね村、西は下藤沢しもふじさわ(現入間市)、南は北田きただ新田(現所沢市)および北入曾村・南入曾村の各持添新田。南を新河岸道の一本古市場ふるいちば道が通る。入間いるま郡河越領に属した(風土記稿)武蔵野新田の一で、寛文四年(一六六四)に北入曾・南入曾両村の村民七人が川越藩の許可を得て開発、同六年に立村した。その際山口やまぐち領三一ヵ村から秣場がなくなるとの訴訟が起こされたが、同所は川越藩領の武蔵野野高二〇〇石のうちとの理由により却下されている(寛文六年「覚書」金剛院文書)。村名は「千載集」所載の藤原俊成の一首「むさしののほりかねの井もあるものをうれしく水のちかづきにける」の「水の」からとったという(享保二年「覚」牛窪家文書)


水野村
みずのむら

[現在地名]御所市大字西佐味にしさび

金剛山地東麓の高台地に位置。奈良時代には高宮たかみや寺があり、「和名抄」の高宮郷の地か。高宮は「日本書紀」皇極天皇元年条に「蘇我大臣蝦夷、己が祖廟葛城の高宮に立てゝやつらまひをす」、同書推古天皇三二年一〇月一日条にも「葛城県元臣が本居なり」とみえる。


水野村
みずのむら

[現在地名]朝日村上中島かみなかじま

三面みおもて川中流域に位置する。元禄郷帳には上中島村枝郷として村名がみえる。村上藩領に属した。天保五年(一八三四)の万留帳(小田家文書)によれば、元禄一二年(一六九九)の書上には六九年以前上中島村百姓により開発されたと記すとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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