沖田総司(読み)オキタソウジ

デジタル大辞泉 「沖田総司」の意味・読み・例文・類語

おきた‐そうじ【沖田総司】

[1844~1868]江戸末期の新撰組隊士。奥州白河藩脱藩し、新撰組設立当初から参加近藤勇の刑死後、江戸で肺病により没。天然理心流剣法にすぐれ、池田屋事件活躍

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改訂新版 世界大百科事典 「沖田総司」の意味・わかりやすい解説

沖田総司 (おきたそうじ)
生没年:1844-68(弘化1-明治1)

新撰組隊士。陸奥白河藩士の子に生まれたが,数え2歳で父が死亡し,姉が沖田家を継いだ。天然理心流近藤周助の試衛館に入り,近藤勇とは同門。卓越した剣の使い手として知られ,1863年(文久3)京都で結成された新撰組の有力隊士となる。翌年6月の池田屋事件のとき喀血して昏倒したが,その後も一番隊長を務めた。鳥羽伏見戦後に江戸へ帰るが,悪化した肺患のため死去した。
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朝日日本歴史人物事典 「沖田総司」の解説

沖田総司

没年:明治1.5.30(1868.7.19)
生年天保13(1842)
幕末維新期,白皙の天才的美剣士とうたわれる新選組の一番隊隊長。名は房良,幼名宗治郎。父は陸奥白河藩(福島県)藩士の沖田勝次郎。総司幼くして沖田家は藩籍を離れたといわれるが,義兄林太郎が安政6(1859)年まで在籍の記録がある。近藤勇の天然理心流試衛館の塾頭を務め,近藤,土方歳三らと上洛,新選組に加盟。池田屋の斬り込みで喀血昏倒。参謀山南敬助の脱走罪による切腹介錯。明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦には労咳のため参加せず,江戸引き揚げ後は,神田和泉橋の医学所や今戸八幡の松本良順宅で療養。千駄ケ谷池尻橋の植木屋平五郎宅の納屋で死んだといわれる。<参考文献>子母沢寛『新選組始末記』

(釣洋一)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「沖田総司」の意味・わかりやすい解説

沖田総司
おきたそうじ
(1842/1844―1868)

幕末の新選組隊士。父勝次郎は江戸詰の白河(しらかわ)藩士で、総司2歳のとき死去。江戸・市ヶ谷の近藤周助(勇(いさみ)の養父)の内弟子となり、天然理心流を学び剣技に優れた。のち塾頭となり、多摩郡に出稽古(でげいこ)に歩いた。1863年(文久3)2月に近藤勇らと上洛(じょうらく)し新選組副長助勤、のち一番隊組長。64年(元治1)池田屋事件では目覚ましい働きをした。新選組幹部として活躍したが、67年(慶応3)ごろより肺病が進み、慶応(けいおう)4年5月30日没。墓は東京都港区元麻布の専称寺にある。

[小島政孝]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「沖田総司」の解説

沖田総司 おきた-そうじ

1842/44-1868 幕末の武士。
天保(てんぽう)13/15年生まれ。陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩士の子。江戸市ケ谷の試衛館で天然理心流の剣術をまなぶ。天才的剣士といわれ,のちに塾頭となる。文久3年近藤勇の新選組創設に参加。幹部として一番隊組長をつとめ,池田屋事件などで活躍したが,結核により慶応4年5月30日死去。25/27歳。名は房良。

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