池田屋事件(読み)イケダヤジケン

デジタル大辞泉 「池田屋事件」の意味・読み・例文・類語

いけだや‐じけん【池田屋事件】

元治元年(1864)京都三条の旅館池田屋で謀議していた長州藩土佐藩などの尊王攘夷そんのうじょうい派の志士を、新撰組襲撃した事件池田屋騒動

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共同通信ニュース用語解説 「池田屋事件」の解説

池田屋事件

1864年6月5日夜、京都三条の旅館「池田屋」に集まっていた長州土佐肥後などの過激派志士20人ほどが新選組に襲撃され、10人以上が死亡、捕縛された事件。新選組は会津藩などの援軍がないまま単独での突入を決意。近藤勇沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で踏み込み、その後土方歳三らの別隊が駆け付けた。主に幕府側の資料によると、志士たちは京に火を放って天皇を長州に連れ去ることを企てていたとされる。新選組は少人数で暴挙を阻止したとして一躍名を上げ、後に全員が幕臣に取り立てられるまでに至った。

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精選版 日本国語大辞典 「池田屋事件」の意味・読み・例文・類語

いけだや‐じけん【池田屋事件】

  1. 幕末、元治元年(一八六四六月、京都三条の旅宿池田屋で謀議中の長州、土佐、肥後各藩の討幕派浪士を新撰組が襲撃した事件。「池田屋騒動」とも。

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改訂新版 世界大百科事典 「池田屋事件」の意味・わかりやすい解説

池田屋事件 (いけだやじけん)

1864年(元治1)6月,京都三条小橋の旅館池田屋でおこった新撰組による尊攘派襲撃事件。文久3年(1863)8月18日の政変後の京都は,公武合体派の勢力下におかれ尊攘派志士の活動は圧迫されていた。勢力挽回を意図した尊攘派は,熊本藩の宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保暗殺を企てた。志士たちは京都に潜入して画策するが,ひそかに武器を集めていた近江出身の古高俊太郎が新撰組に捕らえられるなど,きびしい情勢が切迫していた。翌64年6月5日,吉田稔麿,北添佶摩,宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20余人が池田屋に集まり蜂起の件を謀議中,近藤勇ら新撰組数十人が襲い激しい闘いとなった。尊攘派志士は,宮部,北添,吉田らの闘死をはじめとして,ほとんどが捕殺された。この事件に憤激した長州藩は,激派を中心にして挙兵上京することになり,同年7月に禁門の変をひきおこした。
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百科事典マイペディア 「池田屋事件」の意味・わかりやすい解説

池田屋事件【いけだやじけん】

1864年旧6月5日京都三条の旅宿池田屋に集合した尊攘(そんじょう)派志士を新撰組数十名が襲撃,肥後(ひご)熊本藩士宮部鼎蔵(ていぞう),長州藩吉田稔麿(としまろ)ら9名が殺された事件。文久の政変以来激しい弾圧に見舞われた尊攘激派が,公武合体派の首魁(しゅかい)中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保らの暗殺を計画したため起こされた。この事件に憤激した長州藩は,激派を中心に挙兵上京し,禁門の変をひきおこした。
→関連項目近藤勇

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「池田屋事件」の意味・わかりやすい解説

池田屋事件
いけだやじけん

元治1 (1864) 年6月5日,京都三条の旅館池田屋で新撰組が勤王派浪士を襲撃した事件。文久3 (63) 年8月 18日の政変で失脚した長州藩は,公武合体派の不和をみて,尊王攘夷派を中心として勢力挽回を策した。京都に潜入した尊王攘夷派は,肥後藩士宮部鼎蔵を主謀とし,公武合体派の中川宮以下公卿,大名らを暗殺して市内に蜂起する計画を立てた。その謀議のため二十余人が池田屋に集会中,市中警備の新撰組に探知され,近藤勇以下五十余人に斬り込まれて宮部ほか8人が斬られ,4人が負傷,5人が捕えられた。長州の桂小五郎 (→木戸孝允 ) は会合に遅れて難を免れ,藩邸側の出動を制止した。この事件は長州藩を強く刺激し,翌月には大挙上京して禁門の変を起すにいたる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「池田屋事件」の意味・わかりやすい解説

池田屋事件
いけだやじけん

幕末における新選組の尊攘(そんじょう)派襲撃事件。1864年(元治1)6月5日、京都・三条河原町の旅館池田屋に集まった肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)ら約30名の尊攘派志士を、近藤勇(こんどういさみ)以下約30名の新選組隊士が、京都守護職や所司代の応援を得て襲撃したもので、尊攘派志士に多くの被害を出した。宮部鼎蔵、吉田稔麿ら9名が斬死(ざんし)し、二十数名が捕らえられた。この事件は、前年来後退していた尊攘派志士たちが京都で挙兵を計画し勢力を盛り返そうとした事件であったが、かえって新選組の名を一躍高めた。この池田屋の会合は、同志古高俊太郎(こたかしゅんたろう)が捕らえられたことに対する善後策をたてるためであったが、木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)が参加しながらも、集会に早すぎたということで対馬(つしま)藩邸に赴き難を免れたことは有名。

[池田敬正]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「池田屋事件」の解説

池田屋事件
いけだやじけん

1864年(元治元)6月におきた新撰組による尊攘派志士襲撃事件。公武合体運動の退潮により,尊攘派志士が京都に潜伏,活動を活発化したため,京都守護職・京都所司代・新撰組は警戒を強めていた。新撰組は京都三条の旅館池田屋を内偵し,6月5日早朝志士1人を捕らえ拷問。志士に市中放火,中川宮・松平容保(かたもり)の暗殺計画などがあるとして,同夜池田屋で会合中の志士を襲った。かけつけた京都守護職の兵3000が囲むなかで新撰組が中心となって激闘し,志士7人を斬殺,23人を捕らえた。この事件によって新撰組の威名があがった。一方尊攘派の藩や志士を憤激させ,禁門の変の原因となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「池田屋事件」の解説

池田屋事件
いけだやじけん

1864年,幕府による尊攘派志士弾圧事件
八月十八日の政変(1863)後,尊攘派志士が入京して勢力回復の機をうかがい,中川宮(朝彦親王)らを暗殺しようと企てた。幕府側ではこれを探知し,京都三条小橋の旅館池田屋に会合中の長州藩などの志士20余名を新撰組が急襲,多数を殺傷・逮捕した。この事件により長州藩論は硬化し,禁門の変の原因となった。

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防府市歴史用語集 「池田屋事件」の解説

池田屋事件

1864年(元治元年)6月、新撰組[しんせんぐみ]が京都の旅館池田屋[いけだや]に集まっていた長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲った事件です。この事件で多くの志士たちが死んだり、傷を負ったりしました。

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