幕末、関東におこった剣術の新流派。流祖は遠州(静岡県)の人、近藤内蔵之助長裕(くらのすけながひろ)(?―1813)。鹿島(かしま)新当流の系統に属し、剣のほか柔術、棒術などをあわせ教授した。剣の技法は当世風の華美な小技(こわざ)を使わず、重くて太い握りの木刀を振るって、気力・気組みで敵を圧倒する、いわゆる実戦的な形剣法で、「無心の心、無形の形、千変万化、臨機応変、もって理心(りしん)の精妙(せいみょう)、天然(てんねん)の誠気(せいき)に至る」ことを目標とした。天明(てんめい)から寛政(かんせい)初年、初めて江戸に出て、両国薬研堀(やげんぼり)に道場をもったが、なかなか門人がつかず、その不振を打開するために、近郊農村の富・中農層や在郷商人らの子弟を対象とする巡回出張教授に活路を求めたが、これが時宜を得て、武州多摩郡から相州高座(こうざ)郡方面にかけて、熱心な支持者を獲得するに至った。2代三助方昌(さんすけのぶあき)は八王子在の戸吹(とぶき)村(現八王子市)名主坂本家、3代周助邦武(しゅうすけくにたけ)は南多摩(みなみたま)郡小山村(現町田市)名主島崎家、4代勇昌宜(いさみまさよし)は北多摩郡上石原村(現調布市)宮川家の出身というように、歴代農民門人のなかから優秀な者を選んで養嗣(ようし)としているのが特徴的であった。2代三助は、剣術を志す者には喜んで入門を許したので、3代周助の時代には一門総勢1000人といわれた。また江戸市ヶ谷柳町の甲良(こうら)屋敷西門前に、道場試衛館(しえいかん)を開いたが、こちらはあまりはやらなかったという。4代勇は1862年(文久2)幕府の浪士徴募に応じて、門人沖田総司(そうじ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)ら7名とともに上洛(じょうらく)、のちに新選組を組織して、その中心人物となった。
[渡邉一郎]
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