河越氏館跡(読み)かわごえしやかたあと

日本歴史地名大系 「河越氏館跡」の解説

河越氏館跡
かわごえしやかたあと

[現在地名]川越市上戸

入間いるま川と小畔こあぜ川に挟まれた入間台地の縁辺に築かれていた鎌倉期から南北朝期にかけての館跡。国指定史跡。京都新日吉社領河越庄の庄司河越氏の館跡とされる。館跡に時宗常楽じようらく寺がある。河越氏は平姓秩父氏の出自で、武蔵国留守所総検校職を勤めた秩父重綱の次男重隆を祖とする。なお重綱の長男重弘からは畠山・長野・小山田・棒谷・稲毛諸氏、三男重継は江戸氏となった。重隆は秩父から入間郡に進出、上戸うわど一帯本拠を移して河越庄を開発し、名字としたとみられる。源義賢の武蔵国進出に協力したが、久寿二年(一一五五)大蔵おおくら(現嵐山町)の合戦で源義平に敗れて討たれたという(「吾妻鏡」治承四年九月七日条ほか)。重隆の息能隆の跡を継いだ重頼は、源頼朝の挙兵当初、一族の畠山重忠・江戸重長らとともに源氏方の三浦義明相模衣笠きぬがさ(現神奈川県横須賀市)に攻めた。しかし頼朝が再起し武蔵に入国した際畠山・江戸氏らとともに頼朝に服属した。重頼の妻は頼朝の乳母比企尼の娘で、寿永元年(一一八二)頼朝の長男頼家誕生のときには乳母を勤めている。木曾義仲討伐・平氏追討に出陣して戦功をあげた。元暦元年(一一八四)九月頼朝の命により娘を源義経に嫁がせており、鎌倉幕府の有力御家人であった。しかし文治元年(一一八五)義経は頼朝の怒りを受け追討されたため、縁者であった河越氏は所領を没収され、重頼と嫡子重房は誅殺された。しかし同三年本貫地の河越庄は未亡人の尼に返付され(「吾妻鏡」同年一〇月五日条)、その後は重頼三男の重員に継承された。武蔵国留守所総検校職は畠山重忠が継ぎ、重忠没後は補任されないままであったが、嘉禄二年(一二二六)に重員が同職に補任され、秩父氏一族の嫡流の立場が認められた(同書同年四月一〇日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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