源義平(読み)ミナモトノヨシヒラ

デジタル大辞泉 「源義平」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしひら【源義平】

[1141~1160]平安末期の武将義朝長男15歳叔父義賢を倒して武名をあげ、悪源太と称された。平治の乱で父義朝に従って奮戦、敗れて美濃に逃れた。父の死後京都に潜入して平清盛をねらったが、捕らえられてられた。

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精選版 日本国語大辞典 「源義平」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よしひら【源義平】

  1. 平安末期の武将。義朝の長子。一五歳の時、武蔵国で叔父義賢を破り武名を挙げ、悪源太と呼ばれた。平治の乱に父に従って奮戦したが敗れ、京に潜入して清盛の命をねらったが、捕えられて斬殺された。永治元~永暦元年一一四一‐六〇

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改訂新版 世界大百科事典 「源義平」の意味・わかりやすい解説

源義平 (みなもとのよしひら)
生没年:1141-60(永治1-永暦1)

平安末期の武将。源義朝の長子,頼朝の兄。鎌倉悪源太,悪源太と呼ばれた。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(源義仲の父)を武蔵に殺害。平治の乱(1159)に際して上洛,父に従って勇戦したが六波羅の戦で敗退し,東国に逃れた。翌年1月父の死を聞き上洛して平清盛を討とうとしたが,平氏家人難波経房に捕らえられ,1月19日(21日また22日,25日ともいう)六条河原で経房によって斬られた。

平治物語》《尊卑分脈》によれば,義平は斬首にあたり〈雷神となって経房以下の怨敵を伐たん〉と述べたといわれ,斬られるやその死骸が自分の首を左脇に抱えこんで伏し,首を取ろうとしても身から離すことができなかったという。1167年(仁安2,一説に1168年)7月7日平清盛に従って摂津布引滝に下向したとき,経房は雷にうたれて死んだと伝えられる。松居松葉(松翁)の戯曲《悪源太》の題材ともなっている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源義平」の意味・わかりやすい解説

源義平
みなもとのよしひら
(1141―1160)

平安後期の武将。義朝(よしとも)の長子、頼朝(よりとも)の兄。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(木曽義仲(きそよしなか)の父)を武蔵(むさし)国大倉(埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町)で討った。鎌倉悪源太(あくげんた)といわれる。保元(ほうげん)の乱(1156)に戦功のあった義朝は、父為義(ためよし)らを殺されるなど戦後処理に不満をもっていた。一方、当時の実力者信西(しんぜい)入道(藤原通憲(みちのり))に出世の道を阻止された藤原信頼(のぶより)は、義朝を誘って信西を滅ぼす機会をねらっていた。59年(平治1)12月、信西の武力的後援者平清盛(きよもり)一族の京都留守を機にクーデターを決行した。義平も父に従って勇戦、熊野(くまの)から引き返す平氏軍を摂津阿倍野(あべの)(大阪市阿倍野区)で迎え討とうと主張したが、信頼の反対にあった。戦況は利なく、京都六条(ろくじょう)河原で敗れ、父は尾張(おわり)で殺された。美濃(みの)まで逃れた義平は、父の死を聞いて京に引き返し清盛を討たんとねらったが、平氏の家人(けにん)難波経房(なんばつねふさ)に捕らえられ、永暦(えいりゃく)元年正月19日六条河原で斬(き)られた。斬られるとき経房に、「雷となって汝(なんじ)を殺さん」といい、そのとおり経房はのち雷にうたれて死んだ、という伝説がある。

[田辺久子]

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朝日日本歴史人物事典 「源義平」の解説

源義平

没年:永暦1.1.19(1160.2.27)
生年:永治1(1141)
平安後期の武士。源義朝の長男。母は三浦義明の娘。鳥羽上皇に登用されて中央に進出した義朝のあとをうけて鎌倉を本拠に活動。久寿2(1155)年8月18日,叔父の義賢(木曾義仲の父)を武蔵国大蔵館に攻め殺し,「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。平治の乱には上洛して義朝に従い,奮戦の様子は『平治物語』によって広く知られている。敗戦ののち,再挙を期して北国に向かったが,義朝の死を聞いて都に潜入。平家一門の要人に対するテロを企てたが,機を得ないうちに平家の家人難波経遠にとらえられ,京都の六条河原で斬首された。<参考文献>上横手雅敬「院政期の源氏」(『御家人制の研究』)

(野口実)

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百科事典マイペディア 「源義平」の意味・わかりやすい解説

源義平【みなもとのよしひら】

平安末期の武将。義朝の長男。通称悪源太(あくげんた)。平治の乱に父に従って奮戦したが敗れ,父の死後京都に潜入し平清盛をねらったが,捕らえられて殺された。
→関連項目平治物語源義仲

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「源義平」の解説

源義平 みなもとの-よしひら

1141-1160 平安時代後期の武将。
永治(えいじ)元年生まれ。源義朝(よしとも)の長男。叔父の源義賢(よしかた)を攻め殺し,悪源太と称された。平治(へいじ)の乱で父にしたがい,一族とともに敗走。美濃(みの)(岐阜県)青墓で父とわかれ,再挙のため北陸にむかう。父の死後京都にもどって平清盛をねらい,捕らえられて永暦(えいりゃく)元年1月19日処刑された。20歳。
【格言など】終(つい)には必ず雷と成りて蹴殺さんずるぞ(「平治物語」処刑にのぞんで)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源義平」の意味・わかりやすい解説

源義平
みなもとのよしひら

[生]永治1(1141)
[没]永暦1(1160).1.19. 京都
平安時代後期の武士。義朝の長子。母は橋本の遊女とも修理大夫範兼の娘ともいう。鎌倉悪源太といわれた。久寿2 (1155) 年叔父源義賢と武蔵大倉で戦ってこれを殺し武名をあげた。平治の乱には父に従い,摂津で平清盛の帰洛を迎え討とうと主張したがいれられず,戦いに敗れて近江辺を転々としていた。父が尾張の旧臣長田忠致に殺されたのち京に引返し,清盛をねらったが,捕えられて六条河原で斬られた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源義平」の解説

源義平
みなもとのよしひら

1141~60.1.19

平安後期の武将。義朝の長子。(鎌倉)悪源太(あくげんた)と称する。義朝上洛後,東国経営にあたる。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(義仲の父)を武蔵国大蔵館で殺害。59年(平治元)平治の乱に上洛,奮戦したが敗れた。父の命で北国勢を集めるため北陸道にむかったが,越前国足羽(あすわ)(現,福井市)で父の死を聞き再び上洛。平清盛暗殺の機会を狙ったがはたせず,捕らえられて斬首。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源義平」の解説

源義平
みなもとのよしひら

1141〜60
平安末期の武将
義朝の長子。15歳で叔父義賢 (よしかた) (義仲の父)を討ち,武勇の誉れ高く,悪源太と号した。1159年平治の乱では父のもとで勇戦したが敗れ,京都市中に潜伏して平清盛父子をねらったが,捕らえられ六条河原で斬られた。

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