平安末期の武将。源義朝の長子,頼朝の兄。鎌倉悪源太,悪源太と呼ばれた。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(源義仲の父)を武蔵に殺害。平治の乱(1159)に際して上洛,父に従って勇戦したが六波羅の戦で敗退し,東国に逃れた。翌年1月父の死を聞き上洛して平清盛を討とうとしたが,平氏家人難波経房に捕らえられ,1月19日(21日また22日,25日ともいう)六条河原で経房によって斬られた。
《平治物語》《尊卑分脈》によれば,義平は斬首にあたり〈雷神となって経房以下の怨敵を伐たん〉と述べたといわれ,斬られるやその死骸が自分の首を左脇に抱えこんで伏し,首を取ろうとしても身から離すことができなかったという。1167年(仁安2,一説に1168年)7月7日平清盛に従って摂津布引滝に下向したとき,経房は雷にうたれて死んだと伝えられる。松居松葉(松翁)の戯曲《悪源太》の題材ともなっている。
執筆者:飯田 悠紀子
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平安後期の武将。義朝(よしとも)の長子、頼朝(よりとも)の兄。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(木曽義仲(きそよしなか)の父)を武蔵(むさし)国大倉(埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町)で討った。鎌倉悪源太(あくげんた)といわれる。保元(ほうげん)の乱(1156)に戦功のあった義朝は、父為義(ためよし)らを殺されるなど戦後処理に不満をもっていた。一方、当時の実力者信西(しんぜい)入道(藤原通憲(みちのり))に出世の道を阻止された藤原信頼(のぶより)は、義朝を誘って信西を滅ぼす機会をねらっていた。59年(平治1)12月、信西の武力的後援者平清盛(きよもり)一族の京都留守を機にクーデターを決行した。義平も父に従って勇戦、熊野(くまの)から引き返す平氏軍を摂津阿倍野(あべの)(大阪市阿倍野区)で迎え討とうと主張したが、信頼の反対にあった。戦況は利なく、京都六条(ろくじょう)河原で敗れ、父は尾張(おわり)で殺された。美濃(みの)まで逃れた義平は、父の死を聞いて京に引き返し清盛を討たんとねらったが、平氏の家人(けにん)難波経房(なんばつねふさ)に捕らえられ、永暦(えいりゃく)元年正月19日六条河原で斬(き)られた。斬られるとき経房に、「雷となって汝(なんじ)を殺さん」といい、そのとおり経房はのち雷にうたれて死んだ、という伝説がある。
[田辺久子]
(野口実)
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1141~60.1.19
平安後期の武将。義朝の長子。(鎌倉)悪源太(あくげんた)と称する。義朝上洛後,東国経営にあたる。1155年(久寿2)叔父義賢(よしかた)(義仲の父)を武蔵国大蔵館で殺害。59年(平治元)平治の乱に上洛,奮戦したが敗れた。父の命で北国勢を集めるため北陸道にむかったが,越前国足羽(あすわ)(現,福井市)で父の死を聞き再び上洛。平清盛暗殺の機会を狙ったがはたせず,捕らえられて斬首。
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