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沼田順義 ぬまた ゆきよし

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

沼田順義 ぬまた-ゆきよし

1792-1850* 江戸時代後期の国学者。
寛政4年生まれ。はじめ武蔵(むさし)川越(埼玉県)で医を開業。のち失明して検校(けんぎょう)となり三芳野城長と称した。林述斎に和漢の学をまなび,本居宣長(もとおり-のりなが)や賀茂真淵(かもの-まぶち)の儒教批判に反論した。嘉永(かえい)2年12月17日死去。58歳。上野(こうずけ)(群馬県)出身。字(あざな)は道意。号は楽水堂。著作に「級長戸風(しなどのかぜ)」「国意考弁妄」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

沼田順義

没年:嘉永2.12.17(1850.1.29)
生年:寛政4(1792)
江戸後期の国学者。道意,楽水堂と号する。上野国(群馬県)群馬郡仲尾村の人。父の名は与市。医術を高崎の大熊松泉,吉田平格に学ぶ。甲斐へ行き,座光寺南屏,磯野公道に古医方を学ぶ。また江戸で林述斎に入門した。順義は盲目の学者として知られるが,失明の時期は諸説あって明らかではない。21歳で駿州(静岡県)清水に医を開業し,のち武蔵川越(埼玉県)に移って繁盛したと伝えられる。後年検校に補せられ,江戸湯島に住み,三芳野城長と称した。本居宣長の『直毘霊』に対して儒家市川匡麿が『まがのひれ』で難じ,これに宣長が『くず花』で反論したのを受けて,『級長戸風』(1830)を著し,『古事記』偽書説を唱えた。<参考文献>小笠原春夫『国儒論争の研究』

(飯倉洋一)

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世界大百科事典 第2版の解説

ぬまたゆきよし【沼田順義】

1792‐1849(寛政4‐嘉永2)
江戸後期の儒学者,国学者。字は道意。楽水堂と号する。検校に補せられ,三芳野城長と称した。上野高崎在の人。若くして医学を修め,武蔵川越に住して医を業とした。のち江戸湯島に移り,盲人ながら林述斎に入門して儒学に精進を重ねる。後年は国学に関心を強め,本居宣長の《直毘霊(なおびのみたま)》や《葛花》を批判して《級長戸風(しなどのかぜ)》を著し,次いで賀茂真淵の《国意考》に痛論を加えて《国意考弁妄》を出すなど,学界に大きな波紋を投じた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

沼田順義
ぬまたゆきよし
(1792―1850)

江戸後期の学者、医師。字(あざな)は道意。楽水堂と号した。寛政(かんせい)4年上野(こうずけ)国(群馬県)の代々豪農の家に生まれる。大熊松泉、磯野公道(いそのこうどう)(1772―1847)らに就いて医術を学び、武州川越(埼玉県川越市)に開業。後年失明して検校(けんぎょう)に補せられ、江戸に出て湯島に住し、三芳野城長(みよしのじょうちょう)と称した。林述斎(はやしじゅつさい)の門に学ぶなど和漢の学に造詣(ぞうけい)深く、名声があった。なかでも『級長戸風(しなどのかぜ)』(1830)『国意考弁妄(こくいこうべんもう)』(1831)などを著し、賀茂真淵(かもまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)ら国学者の日本中心主義、反儒教主義を神儒一致の立場から批判したことは知られる。嘉永(かえい)2年12月17日病没した。墓所は東京・下谷(したや)の正慶寺。[高橋美由紀]
『鷲尾順敬編『日本思想闘諍史料 第7巻』復刻版(1969・名著刊行会)』

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